[始祖鳥生息地へ]

始祖鳥のさえずり
(1998年3月1日(日)~3月31日(火)執筆分)

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 落ちも構成もない散文的な文章を垂れ流しにさせていただくコーナーです。


[日記:最新版] [過去の日記(タイトル一覧)] [始祖鳥生息地へ]
第20回『熱のはなし(その7)』 1998年3月1日(日)執筆
第21回『ちょっとひとやすみ』 1998年3月2日(月)執筆
第22回『今日はちょっとハイですぜ』 1998年3月3日(火)執筆
第23回『眠りのはなし』 1998年3月4日(水)執筆
第24回『クジラとか。』 1998年3月5日(木)執筆
第25回『この国のクルマのこと』 1998年3月6日(金)執筆
第26回『バイオスフィアその他』 1998年3月7日(土)執筆
第27回『簡潔なの。』 1998年3月8日(日)執筆
第28回『ストールンなの。』 1998年3月9日(月)執筆
第29回『バスラー総統なの。』 1998年3月10日(火)執筆
第30回『アンドロー梅田なの。』 1998年3月11日(水)執筆
第31回『ダンディズムなの。』 1998年3月12日(木)執筆
第32回『さらにダンディズムなの。』 1998年3月13日(金)執筆
第33回『夏時間終了なの。』 1998年3月14日(土)執筆
第34回『魂の所在』 1998年3月15日(日)執筆
第35回『自己の境界』 1998年3月16日(月)執筆
第36回『わたしがバイオスフィア2に懐疑的な理由』 1998年3月17日(火)執筆
第37回『アメ車発見』 1998年3月18日(水)執筆
第38回『アクセス数500到達』 1998年3月19日(木)執筆
第39回『哲学っぽいはなし』 1998年3月20日(金)執筆
第40回『空を飛ばないつもりじゃなかった』 1998年3月21日(土)執筆
第41回『リトルトン港の一日』 1998年3月22日(日)執筆
第42回『寝過ごした。』 1998年3月23日(月)執筆
第43回『今日は小休止』 1998年3月24日(火)執筆
第44回『鳥の飛行の起源について』 1998年3月25日(水)執筆
第45回『切りが良い。』 1998年3月26日(木)執筆
第46回『自己愛とコミュニケーション』 1998年3月27日(金)執筆
第47回『ドライブ、する?』 1998年3月28日(土)執筆
第48回『カイコウラに行ってきました』 1998年3月29日(日)執筆
第49回『光の知覚』 1998年3月30日(月)執筆
第50回『盲点チェッカーです』 1998年3月31日(火)執筆


[目次]
『熱のはなし(その7)』
1998年3月1日執筆

昨日付けで、ぴか さんが新コーナー、電脳話 JavaScript編を開設しておられました。
 開設のきっかけは当生息地の外付けアクセスカウンタを見てとのことで、嬉しいコメントに舞い上がってしまったのですが、その直後に当地のソースをご覧になったとの記述を発見し、数分間リブレットの前に突っ伏していました。
 ほんとうに穴があったら入りたいようなソースで(謙遜でもなんでもありません)、お恥ずかしい限りです。
 ネットスケープでの不具合についてのご教授、ありがとうございます。当アクセスカウンタの不具合について、ご教授いただいた対策をしてみました。今度はうまく表示されましたでしょうか。
 JavaScriptなら、当生息地よりも臥龍 鳳雛さんのところが100倍はおもしろいですし、ためになります。大内大さんのところもバックグラウンドで音楽を流されているようなのですが、わたしのリブレットには音源が入っていないので実際に拝聴することはできないのでした。残念です。

以前、『自身の更新日付を自動的に表示するスクリプト』も入れてみようと思ったのですが、『それ自体の日付が変更される』ということはドキュメントのどこかを『更新した』ということでもあり、それならばいっそ手で日付を入れた方が早そうなので、導入は保留しています。
 ただ『アドレスを指定したドキュメントの更新日付を自動で取得する』ということができたらいいな、とひそかに思っています。javaスクリプトを仕込んでおいたリンクのページを見るだけで、先方の更新状況が分かるというのは、非常に便利な気がします。無駄足を踏まなくてもよいのは巡回効率の点で有利です。
 こういうリンクページにお目にかかったことはありませんし、わたしが思いつくことならば必ず誰かがためしているでしょうから、できないのかもしれないですね。

以下は熱のはなしの第7回です。
 論議の経緯については以下のリンクをご参照ください。

拙文『熱のしもべ』1998年2月22日執筆分
一歩さんの日記1998年2月23日執筆分
拙文『熱のはなし(その2)』1998年2月24日執筆分
一歩さんの日記1998年2月24日執筆分
拙文『熱のはなし(その3)』1998年2月25日執筆分
一歩さんの日記1998年2月25日執筆分
拙文『熱のはなし(その4)』1998年2月26日執筆分
一歩さんの日記1998年2月26日執筆分
ぴか さん『自家用cience事典iction風味』(参考資料)1998年2月26日執筆分
拙文『熱のはなし(その5)』1998年2月27日執筆分
一歩さんの日記1998年2月27日執筆分
拙文『熱のはなし(その6)』1998年2月28日執筆分
一歩さんの日記1998年3月1日執筆分

以下、非科学警報発令! どうかまじめに受けとらないでください。

タイムマシンねたですが、過去にツケをまわすという観点で見るならば、たしかに「ブルーホール」もこのネタでしたね。好きなマンガです。
「恐竜は人間よりも美しいよ――例外もいるけどね」
という台詞が心に残っています。

『悪魔の無銭飲食』のネタも、具体的にどう料理すればいいのかは難しそうですが、おもしろそうですね。読んでみたいです。

ぜんまい車のお話です。
 最初の発進加速もそうですが、もし減速時のエネルギーをぜんまいに蓄積し損ねた場合は困ってしまいますね。信号待ちの交差点で、皆がじりじりとバックする姿はちょっと嫌かもしれません。『押しがけ』は当然、屈強な男たちが数人がかりで後ろに押すのでしょうね。
 しかし、『はずみ車』が実用化寸前というお話には驚きました。なんだかゼンマイ仕掛けと大差ないような気がしますが、事実は小説よりも奇なり、ですね。

光エネルギーについてです。電磁波は明らかにエネルギーを持っていますが、これは可逆、不可逆のどちらかというと迷ってしまいますね。
 自分で言い出しておいて何ですが、各エネルギーの可逆、不可逆についてはデジタルな切り分けかたはできないのかもしれないですね。
 光についていうなら、レーザー光線のような『秩序正しい』、つまりエントロピーの低い光ならば可逆ではないかと見当はつきますが、普通に見られるノイズ的な光はどうなのでしょう。
 太陽電池のようなものがあるということは一見可逆に思えますが、これとて効率は10%程度、投入された光エネルギーのほとんどが無駄になります。弾性エネルギーならば90%の効率さえも実現できるというのに(昔、駄菓子屋などでスーパーボールというよく弾むボールを売っていました。あれの弾性率は0.9を超えていたような気がします。)嘆かわしいことではあります。

光るブレーキで思い出したのですが、ル・マン24時間耐久レースのお話です。  かのサーキットに長さ数キロに及ぶ非常に長い直線があり(名前は失念しましたが)、耐久に挑むプロトタイプカーは、直線が終わる頃には毎時400km近いスピードに達するという話を聞きました。(スピードがですぎて危険であるという理由から、レース開催年度によっては途中何個所かにシケインをもうけることもあるようです。)当然ながら直線の終わりにはコーナーがあります。つまり、シケインが設けられていない場合、毎時400km近い速度からコーナーをクリアできるスピードまで凄まじい減速をおこなう必要があります。夜間にこれを見ると、減速時にディスクブレーキローターが赤熱し、ぼんやりと光を放っているのがわかるらしいです。あなおそろしや。

急ブレーキをかけると、ヘッドライトからレーザー光線がほとばしる車両といえば、大学時代の知人が、CBX125Fのロケットカウルを『デスラー砲を撃ってきそうなデザインだ』と評していたことを思い出しました。波動砲ではなくなぜかデスラー砲であるあたりに奇妙な説得力を覚えました。うん、確かにあれはデスラー砲である、と思ったものです。

以下、私信です。(この日記はほとんどすべてそうだという説もあります)一歩さん、しめきりは大丈夫でしたか。



[目次]
『ちょっとひとやすみ』
1998年3月2日執筆

今朝、一歩さんのページにアクセスしてみたところ、日記の更新がとだえていました。  論文の締切りということで、たいへんなのでしょう。頑張ってくださいね。
 とりあえず、今日の熱のはなしはひとやすみです。

ぴか さん『自家用cience事典iction風味』 に熱力学、情報工学関係の語彙が増えているのに気付き、恐縮してしまいました。  『情報のエントロピー』については、具体的な数式まで提示している徹底ぶりであります。この概念は、事象が起こる確率に密接に関連していたのですね。熱力学の式とまったく同じ形式であるというのにも驚きました。勉強になります。

 当地でも用語解説を集めた事典コーナーを造りたくなってしまいました。数日のうちにお目見えすることになるかもしれません。

アクセスカウンタの不具合の件ですが、ぴか さんにご教授いただき、原因が判明しました。ぴか さん、いつもありがとうございます。  結論からいえば<INPUT>句を</INPUT>で閉じていないことが不具合を引き起こしていたそうです。該当箇所は、今回の更新で修正しましたので、こんどこそ大丈夫かと思っています。ネットスケープをお使いの当ページの読者のみなさん、ご迷惑をおかけしました。

 しかし、同じソースでも、IEとNSのあいだで解釈がことなるというのは、そのまま言語の持つ抽象性と、解釈の曖昧さを暗示していて興味深くもあります。コンピュータの世界にして既にこうなのですから、いわんや人間をや。
 思考するということは、対象を記号化することであり、記号化をするにあたってはなんらかの手段は必要です。この基盤となっているのが『言語』ですが、それは記号的・抽象的であるという段階で、すでに本質と違う存在になってしまう宿命をかかえています
 しかし、わたしたちはそれを承知のうえで不完全な『言語』に頼らざるを得ないのでしょうね。

JavaScriptの件で、今朝、臥龍 鳳雛さんに親切な回答をいただきました。ほんとうにありがとうございます。
 臥龍 鳳雛さんもこの日記を読んでくださっていたことに驚きつつも、喜んでいます。
 臥龍さん、いつもお世話になっております。JavaScriptのコーナーの充実、楽しみにしています。

ニフティサーブのFSFの作家である、滝澤真実さんのホームページ『INSPIRATION』でかねてから進行していたサイバーパンクリレー小説が今夜完結の気配です。
 リレー小説とのことで、滝澤さんの他に、琴鳴さん、廣木春子さんが執筆していますが、いずれもFSF屈指の作家です。これほどクオリティの高いリレー小説は、わたしは今までに読んだことがありません。
 読者の皆さん、これを見逃す手はありませんぞ。



[目次]
『今日はちょっとハイですぜ』
1998年3月3日執筆

本日のビッグニュースです。
 ニフティサーブはFSFの西の大軍師、臥龍 鳳雛さんが、昨日付けで更新日自動取得アプレットの実用化に成功しました。  臥龍 鳳雛さんは、かねてからJava言語/JavaScriptの使用法を積極的に研究なさっていましたが、特に今回開発されたアプレットは、バナーに先方の更新日を表示する機能を備えた画期的なものです。

 その成果ですが、これは百聞は一見にしかず。
 当生息地のリンクページで、件のアプレットを試験運用させていただいています。臥龍 鳳雛さんのバナーにご注目ください。

 では、最後に。
 『臥龍さんのォォォォォ、技術力はァァァァァ、世界一ィィィィィ!』
(『ジョジョの奇妙な冒険』のシュトロハイム大佐をイメージしていただければさいわいです。)

一歩さんの昨日付けの日記で、 当地の別窓アクセスカウンタについてお叱りを受けてしまいました。
 一歩さん、そんないけずなこと言わんと、堪忍してや~。
 以下言い訳になってしまいますが、件の外付けアクセスカウンターはNiftyのcgiを利用するための苦心の作なのです。(わたしのプロバイダ『Voyager』はcgiを使えないのです。)
 ニフティサーブに引っ越すことも考えましたが、ニュージーランドからではFTPが遅いことと、なんだか『命令絶対、規則はいっぱい、知能指数壱千参百、密告大歓迎。』的なにおいがすることで、コンテンツを置くことにはちょっと抵抗をかんじています。

 もちろんわたしには「悪いコトしたるで~」とか「悪意のかたまりア~~クダマン」などという意図は全くないのですが、規則でがんじがらめにされるのはどうも性にあわないのです。
 『俺の旗の下に、俺は自由に生きる』
キャプテンハーロックもおっしゃっていましたし。
 そんなわけで、ちゃっかりアクセスカウンタだけを利用させてもらうことにした結果が、あのささやかな小窓です。画面が狭くなってごめんね、一歩さん。

 しかし、一歩さん『鳥さん』はあんまりです。それを言うなら『トリさん』ですよ。
 わたしは松本零士世代なのです。

 別件ですが『熱のはなし』の総括は別コーナーを作って行なう予定ですので、もう少しお待ちのほどをよろしくお願いします。

カウンタといえば、 2日前にぴか さんのホームページを訪れたところ、カウンタがちょうど200を示していました。 そして、昨日、一歩さんのページを訪れたところ、表紙ページのカウンタが300日記ページが200を指していました。この全部が同時に発生する確率はとんでもないものであるような気がします。 ここはTAB(ニュージーランドの競馬協会)に直行して大穴の馬券を、とか言っていると大損するのがおやくそくなのですよね。
 ぴか さんへのアクセスは証拠の画像があるのですが、一歩さんのケースは画面のコピーに失敗してしまい、証拠が残っていません。(号泣)
 ほんとなのですよー。

さて、宮城県仙台市を拠点とする某秘密結社(笑)のみなさんから、こころ暖まる感想をいただきました。こころから嬉しく思っています。帰国したらまた遊んでください。

 KOSEさん、感想ありがとうございます。某所では長々と無沙汰をしてしまい、もうしわけありません。 遠隔地ゆえにページの軽さには気を使っていましたので、『さくさく表示された』とのコメントに安心いたしました。もっとも、画像をあまり使っていないページなので、軽いのは当然といえばそうかもしれませんね。 この日記のページを『面白い』と言ってくださって嬉しいです。KOSEさん、話題についてリクエストがありましたら、せひおっしゃってくださいね。

 TUNEさん、NS400R改についての解説、『通ごのみ』とのお誉めをいただき、光栄です。最近の単車はわかりませんが、あのころの車体については、わたしはちょっとうるさいつもりです。 やはりフロントは16インチで決まりでしょう。しかし、フレディ・スペンサーは今頃なにをしているのでしょうね。
 単車についてもそのうちに話題にする予定でいます。MFJのライセンスは親に更新を頼みました。したがって、現在も未練がましく保持し続けていますので、今も一応レースには出ることはできるのですが、よる年波には勝てません。 それでもミニバイクやエンデューロはもう一度やってみたいですね。
 腰の方、無理せずゆっくり直してください。今夏、ツーリングに 行きましょう。わたしも北海道からNSRかCRMを持ってくる予定です。

我が妹、N嬢へ。
 日本国籍の某建設会社のアドレスから、なぜか全文英語のメールが来たので驚いてしまいました。思わず兄さんは頭の中で心当たりをさぐったり、『KGBの陰謀か』とか思ってしまいましたよ。 (注:始祖鳥はロシア製の四輪駆動車『ラダ・ニーバ』を散々揶揄している)内容を読んで見ると、なんのことはない、職場からのメールだったのですね。正式なアカウントが決まったらご一報をよろしくね。
 日記のページを楽しみにしてくださって嬉しいです。しかし、ほんとうに面白いですか。書いているわたしは当然おもしろいのですが、読んでいるひとは果たしておもしろいのか、非常に不安です。そうそう、職場でこのページを開くときは、マンガ絵のページにはくれぐれも注意してくださいね。

 いかん、大私信大会と化してきたぞ。
 カタギの読者のみなさん、逃げちゃいや~ん。
 ――いや、今まで話題にした人々がカタギではない、といっているわけではありません。念のため。

おそらく、今日あたりに当生息地のアクセスカウンタが300を超えるはずです。 その歴史的(?)瞬間にお立ち会いになったかた、ご連絡のほどをよろしくおねがいします。



[目次]
『眠りのはなし』
1998年3月4日執筆

昨日、一歩さんフクシュウされてしまいました。 しかしこれはわたしにとって予測できる範囲内、予定調和の一環ということで、さしものかれも 『お釈迦さまの手のひらにあそぶジャン・クーゴ、もとい孫悟空』 に過ぎなかったということでもありますね。
 ふふふ。
 ――とはいっても、一歩さんは当生息地における定期購読者の33%を占めているので(毎日読んでくださっているのは、一歩さんのほかには、ぴか さん臥龍 鳳雛さんくらいのものでしょう)予想がつかないほうがどうかしているという説もあります。(笑)
 とにかく、 のべ300人目 の訪問者の称号はあなたのものです。

 おめでとう、一歩さん
 ありがとう、一歩さん

 日頃よりのご愛顧、ありがとうございます。今後ともご贔屓のほど、どうぞよろしくお願いします。

今日はいろいろあって、今、とても眠いです。というわけで、今回は『睡眠』についてお話しましょう。(脈絡がないぞ>始祖鳥)
 さて、眠りとなにかという問いに対してはいくつかの答え――哲学的なものも含んで――がありますが、今回は生物学的なものについて考えてみようと思います。

ある一定期間動かなくなる、あるいは無反応性の状態をもつという現象は軟体動物や昆虫などにも見られます。1日を活動期とそれ以外に分けることは、どうやら進化の過程の初期に、すでに獲得されていた形質であるようです。
 わたしたち哺乳類や鳥類が眠るということについては、もはや議論の余地はないと思いますが、睡眠を『非活動期間』ととらえるならば、爬虫類も眠りますし、両生類、魚類の多くも眠ることができます。もちろん、ここで『多く』といったのは、やはり例外があるということでもあります。例えば、両生類に例をとってみれば、ヒキガエルやサンショウウオには『睡眠』にともなう明らかな脳波の変化、代謝率の変化がありますが、ウシガエルでは『眠り』がみられません。

 さて、本題にはいります。生物学的な意味で睡眠をどのようにとらえるかということについては、おおむね以下のように分類できると思います。

(1)睡眠の本質は回復過程である
(2)睡眠の本質は『非活動』による利点にある

 どちらかといえば、前者の意見が大勢を占めている気がしますし、あえて反論する必要も感じないのですが、どちらかというと、わたしは後者の意見を支持したい気がするのです。
 一日に同期したある一定のサイクルを設けることは、エネルギーを有効に使う点で非常に有効な手段であるように思えますし、極端な環境の変化から逃れることもできます。
 あるいは適切な睡眠場所を選ぶことで、その間、捕食を逃れることもできるかもしれませんね。

わたしは哺乳類、鳥類の睡眠は『まちがいなく衝動がある』という点でおもしろいと思っています。『睡眠とは行動である』とさえわたしは思っています。動かないこともまた行動の一種であるともいえますし、わたしたち睡眠に至るまでには『眠りたい』という切実な欲求があることは疑うべくもありません。
 積極的に安全なねぐらを探したり、そのために能動的にエネルギーを使うこと、これを『行動』と言わずして何というべきでしょう。
 たまってきた疲労、あるいは覚醒中に分解できない体内老廃物に感応して『受動的』に眠りが起きるのだという意見がありますが、これには基本的にわたしは反対です。
 資料を特定できませんが、脳の特定部位を電流で刺激することにより、能動的に(しかも瞬間的に)眠りをおこすことができるという実験結果がでていたことを記憶しているからです。しかし、ここから引き出される『生き物は眠る必要がないのか』という疑問には、即座には答えかねます。
 REM睡眠は(少なくとも哺乳類において)『記憶の固定』に密接に関わっているという確かな実験結果がありました。記憶の整理中にこぼれ落ちた断片が『夢』であるという通説もあります。
 少なくとも睡眠中に、わたしたちの脳の中ではなにかがおこっていることは間違いがありません。

 ――これを書いているうちにわたしも『積極的な』睡眠の衝動に襲われてきました。 (これがオチか>始祖鳥)

 あしたも、また、飛ばなければなりません。続きはまたあしたにさせてください。
 読者諸氏よ、おやすみなさい。みなさんに、やさしい眠りのありますことを。



[目次]
『クジラとか。』
1998年3月5日執筆

今日はひさしぶりに操縦桿を握りました。
 クライストチャーチにしては珍しく無風状態で、朝早かったためか、地面の照り返しから生まれるサーマル(上昇気流)もなく、フライトそのものは拍子抜けのするものでした。

 しかし、今日は雲一つない好天、しかも外気温が高いときは、コクピットの中は蒸し風呂状態と相場がきまっています。当然ながら、訓練で使っているC172スカイホークIIにはクーラーなどという気の効いたものはついておらず、またベンチレーションもたいして役に立っているようには思えません。かといって空中で側窓を持ち上げると逆に寒いばかりか、書類を吹き飛ばしてしまう危険があるため開けるわけにもいきません。

 くそう、暑い、暑いと、光速で8分10数秒の天空に居すわる核融合熱源をのろいつつ飛んでいたわたしでしたが、着陸寸前に見えた地上待機中のPAトマホークを見て、『わたしはまだましなのである』と心から思いました。そう、パイパー・トマホークは上面までガラス(正確にはアクリルなのですが)が回り込んでいる、『視界の良い』機体なのでした。さぞや暑かったろうなあ。

ここ数ヶ月というもの、クライストチャーチからまったく出ていないことに気付きました。(飛行訓練はのぞく)今週末、天気がよければどこかにいってこようかと思っています。カイコウラ(ニュージーランドのホエールウォッチングの拠点)まで足を運び、ひさしぶりにアザラシのコロニーを見てくるのもおもしろそうです。もし行くことになったら、あらためてここで報告します。

カイコウラは、クライストチャーチの北方160km北に位置する漁業の町です。 この地名は、マオリ語で「エビを食べる」という意味をもっているそうで、そのとおり、クレイフィッシュ(イセエビの仲間)が日々水揚げされています。
 ここにはアザラシの集落や、アジサシの営巣地などもあり、さらに、ホエールウォッチングの拠点でもあります。ナチュラリストなら一年いても飽きのこないところです。

 そうそう、ホエールウォッチングの際には、双眼鏡はお忘れなく。
 今時のボートはクジラへの影響を考えて、あまりかれらの近くには寄りません。
 ターゲットとしては、ヘクターズドルフィンCephalorhynchus hectori 和名:セッパリイルカ)のほかに、マッコウクジラ(Physeter macrocephalus)やシャチ(Orcinus orca)なども出現します。
 あ、ナナミちゃんはでてきません。念のため。

しかし、マッコウクジラの英名「Sperm Whale」はあんまりな名前であると、かねがねわたしは思っていました。
 そもそもこのクジラになぜこのような名前がついたかというと、頭部をかたちづくっている鯨蝋器官(※1)が「Sperm」であると誤解されたのがこの名前の由来らしいのです。

 だったらメスはどうなんだ、メスは。
 そもそも、頭に「Sperm」が詰まっている動物がどこにおるのじゃあ。

 これを名づけた先人に、わたしはちょっと怒りを覚えています。

【注釈】
※1 鯨蝋器官
 これは膨張・収縮することにより浮力の制御をおこなうためのものらしいのですが、ソナー音の指向性を変えるのにも使われている可能性があります。



[目次]
『この国のクルマのこと』
1998年3月6日執筆

昨日に引き続き、ニュージーランドの海洋生物相についてお話しようと思っていたのですが、今日は趣向を変えまして、この国のクルマ事情についておはなししようと思います。
 ニュージーランドは、自国に自動車メーカーが存在しない(※1)こともあって、車は原則として(※2)輸入に依存しています。そういうこともあって、この国は日本からの中古車の輸入が盛んです。ニュージーランドは日本と同じ左側通行であり、車は右ハンドルが標準なので、都合がよいらしいのです。CHCH(※3)の海の玄関、リトルトン港にはたくさんの日本車がならび、さながら中古車の見本市のようでもあります。

8年前に、わたしがはじめてここを訪れたとき、町を走る車はオースチンやローバー、スポーツカーではMGかトライアンフといった、イギリスの車がかなり生き残っていました。状態も千差万別で、ネコのひげがうつるくらいにに磨かれたジャガーと、それこそドアが一枚ないような車が、いっしょに走っているのを見かけたものです。車は今のように安いものではありませんでしたから、その分単車もよく走っていました。
 古いものを直しつつ、大事に乗るのがこの国のやりかたでした。いまでもそうであるとは言えるのですが、4、5年前に車検制度が半年に一度(※4)となり、基準も厳しくなって以来、少々車のファウナ(※5)が変わってきました。
 かつて英国から持ち込まれた古い車は次々と姿を消し、日本車がそれにとってかわっていきました。スポーツカーの分野や高級車の分野では、英国車はその命脈を確かに保っています。熱烈なエンスージアストがいるかぎり、英車が滅びることは決してないと、わたしは感じてます。
 単車も、今ではほとんど見かけません。安い日本車に駆逐されてしまい、もはや絶滅の瀬戸際のように見えます。しかし、単車乗りのしぶとさは、わたし自身身を持って知っていますので、愛すべきかれらが絶滅することはないでしょう。

半年くらい前の話題ですが、『日本の中古車業者』が強く非難をあびたことがありました。書類をたどっていったところ、商品の価値をあげるために、輸出時に走行メーターを巻き戻していた(もちろん違法)という疑惑が持ち上がったのです。これはTV局のスクープだったため、国中あげての大騒ぎになりました。

 しかし、大金持の日本が、わざわざこんな貧乏な国(失礼)からお金を絞り取らなくてもいいような気が(日本に生まれ育ったわたしでさえも)してなりません。
 かれらは例によって『会社のためにやった』『これこそがビジネスである』という意味のことを言うのでしょう。
 これはまだクルマのことだからいいようなものですが、場合によっては、ただ一時の金のために、歴史上に汚点を残すことにもなりかねないというのに。

【注釈】
※1 ニュージーランドには自国の自動車メーカーが存在しない
 確かにそのとおりなのですが、隣国オーストラリアにはホールデンというメーカーがあり、税法上の優遇措置がとられています。

※2 車は原則として輸入に依存
 いくつかの外国資本メーカーは、ニュージーランド国内に組立工場を持っています。

※3 CHCH
 『チチ』と発音します。ネイティブの人はクライストチャーチをこのように略します。
 しかし、多くの日本の旅行者たちは、なぜかこの町を『チャーチ』と略すのです。やめてくれよなあ、『教会』じゃないんだから。これは、少なくとも『サンフラン』を『シスコ』と略すのと同程度には情けないと思うのです。
 ちょっと傲慢モードはいってます>自分。

※4 車検制度は半年に一度
 わたしの乗っているバイクも、来月の車検がとおるかどうか、非常に不安です。
 バッテリーが切れている。←(c)ライダーマン。

※5 ファウナ( fauna )
 動物相のことです。ちなみに『植物相』はフローラ( flora )。



[目次]
『バイオスフィアその他』
1998年3月7日執筆

ぴか さん『自家用cience事典iction風味』は、巡回のたびに単語が増えていて楽しいです。  さきほど拝見したところ、『バイオスフィア2』が追加されていましたので、今日はこれについて話題にしたいと思います。

 さて、この『バイオスフィア計画』についてですが、わたしは以前から不満を持っていました。
 淡水域のようなシンプルな生態系ならいざしらず、森林、湿地、海水域のような複雑な生態系が、『新しい系において』5年や10年で安定する可能性がないことは、生態学の専門家なら十分予測できたはずです。事実、何回も『非常介入』がおこなわれていました。こういう研究は短くても数十年単位でおこなわなければ結果など出せません。
 ひどい言い方ですが、この実験はコマーシャリズム、言い換えれば『客寄せの看板』以上のものではないように、わたしは感じています。

 わたしたちは『生態系』はそこにあってあたりまえのように感じていますが、数千万年をかけてバランスを維持してきた、『秩序ある混沌』であることを見失いがちです。 実際に人間の手でバランスをさせるとなると、『つまみの数』は生物種の数と、環境パラメータ(平均気温、昼夜温度差、湿度、光量、昼夜比率、……)の数だけあるのですから、『自律』できる状態に持っていくには、途方もない労力と時間が必要です。初期条件の設定をごくわずかに変えただけでも『バタフライ効果』を呼び起こし、途方もつかない結果をよびおこします。
 対策として、パラメータを簡略化する、つまり生物種をしぼりこむのもひとつの方法ですが、このような単純な生態系は一時的には安定しても、ちょっとした外乱であっさりバランスを崩してしまいます。『多様性』は安全弁、命綱でもあるのです。
 しばしばSF作品中において、恒星間移民船や宇宙ステーション上で人工生態系を維持する設定に出会いますが、これは現状では超科学に近いものです。生態学の分野にアポロ計画規模の大規模な資源が投入されでもすれば、またはなしは変わる可能性はありますが、これも望みは薄いような気がしてなりません。『生態系』は身近になにげなく存在するものだけに、だれもが簡単に考えてしまうのでしょうね。

いつものように一歩さん 日記を拝読していたところ、気になる点に出会いました。
 言葉を使ううえで『簡潔をこころがける』という箇所ですが、これについてのわたしの意見は少し違っています。

 3月2日付けの日記でも話題にしたことですが、言語というものが対象の記号化システムである以上、対象を絞り込むうえでの、語数と手間と労力は惜しむべきではないと、わたしは思っています。
 もちろん『航空管制』のような例外もありますが、これは『簡潔である』ことが、比喩でなく人命に関わることと、『言葉の定義』そのものが徹底的になされているがためにできることであり、一般的な状況を考えるうえではこれはあてはまらないような気がします。

 『嫌な文章』が『嫌な文章』足り得るのは、冗長な表現方法に起因するというよりは、むしろ表現すべき内容そのものに問題があるような気がするのです。

 いかに簡潔に書かれていても、『いささか潔さに欠ける』意図を持って書かれた文章は、やはりくどくどとした印象を与えるのではないでしょうか。伝えるべき『意図』そのものが『不快さ』『悪意』を含有していた場合には、簡潔であろうとなかろうと、やはり『嫌な文章』になりえます。

荒俣宏の著作、『理科系の文学誌』にあったエピソードを拝借しておはなしします。ヴァン・ヴォートの『非A』について解説していた箇所だったと記憶しているのですが、そこに水産会社数社が共同でオンラインシステムをつくったときの事例があります。

 このシステムに関して数社が打ち合わせをおこなったときのはなしですが、各社代表はその席で、『漁獲がない場合は、その項目にゼロをいれる』という点で合意し、各社それぞれがその仕様に基づいてシステムを設計しました。しかし、ふたを開けてみるとシステムが動きません。
 なぜか。

 調査の結果、件の2バイト項目(半角二文字)には以下のデータがはいっていることがわかりました。

 A社の場合 ”0△”(△は空白)
 B社の場合 ”△0”
 C社の場合 ”00”

 つまり、各社の『ゼロ』に対する解釈が、ことごとく違っていたのです。これではシステムが動作するはずもありません。つまり、A社の考えるゼロと、B社の考えるゼロという概念は違うものであった、ということになりましょうか。

 意図しなかったとはいえ、対象を絞り込むうえで、語数を費やすのを怠ったことが、この不具合の原因だったのでした。
 言語によるコミュニケーション手段は、かくも不完全なものであるのです。

箇条書きというのは、あくまで自分(あるいは近しい立場の人間)にとってだけわかりやすい『符丁』に過ぎないものでもあります。

 繰り返しになりますが、言語が対象の記号化システムである以上、対象を絞り込むうえで、語数と手間と言葉を選ぶ労力を惜しむべきではないような気がします。その手間を惜しんで誤解されても、『理解してくれない周囲がわるいのじゃあ』あるいは『好意的にとってくれないあなたがわるいのよ~ん』ということにはできないのですよね。いや、していけないことはないのですが、そういう方々は分類上、『ごろつき』とか『甘えんぼさん』というカテゴリーに納まることになります。

 対象を絞り込むために使える語数が少なくなればなるほど、誤解を受けるリスクは高いものになっていく以上、簡潔な書き方ほどむずかしいものはないと、わたしは思います。

 言葉とは、まったくむずかしいものですね。

以下別件です。

 ジャン・クーゴの他のふたりは『ドン・ハッカー』と『サー・ジョーゴ』でした。かれらについては名前の出自は明確なのですが、『オーロラ姫』だけがよくわかりません。三蔵法師役に女性をすえるのは、夏目雅子いらいの伝統なのでしょうか。

 ちょっとマチャアキでモンキーマジックでガンダーラなおはなしでした。



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『簡潔なの。』
1998年3月8日執筆

一歩さん 7日付けの日記への返信です。話の経緯はわたしの日記をご参照ください。

簡潔な文章とわかりやすい文章は必ずしも等号では結ばれないのではないかというのが、わたしの意見です。
 簡潔ではあるが、なにを言っているのかわからない文章は数多くあります。以下文例。

【文例1】
「まったく君もアレだね。」 「ありがとうございます。好きでやっていることですから。」

【文例2】
「まったく君もアレだね。」 「申し訳ありません、以後注意いたします。」

【文例3】
「まったく君もアレだね。」 「なんですと、あなたはわたしを侮辱するのですか。」

(1)つまり、発言者にとっては「アレ」とは明白な概念であったとしても、「アレ」という概念の受け取りかたは、ひとそれぞれ、その状況によっても異なります。
(2)「アレ」を普通名詞に置き換えても同様のことがいえます。特定の普通名詞に抱く概念は、各人別個のものだからです。
(3)言葉を惜しんだ文章、あるいは、言葉を選ぶ手間を惜しんだ文章は、誤解を受けるリスクがあまりに大きいのではないかと、わたしは思うのです。
(4)また、誤解を受けた場合、語数がすくないだけに他の言葉でのリスクヘッジがききませんから、それは致命的なものになる可能性が高そうです。
(5)このリスクを承知したうえで「言葉を省略する」のはひとつの方法ではありますが、その場合はたとえ誤解されても「理解してくれない相手が悪い」ということにはなりません。
(6)また、言葉を省略した結果、意図の定まらなくなった文章は、どのような意図で発言をしたのかを聞き直す必要があります。
(7)このことに費やされる時間と労力を考えると、言葉を省略することは、結局効率がよくないのではないかとわたしは考えています。

 以上がわたしの意見でした。

今回は(誤解を生まないと思われるぎりぎりの線で)簡潔な文体を意識してみました。
 一歩さん、いくばくかはわかりやすくなったでしょうか。



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『ストールンなの。』
1998年3月9日執筆

ここクライストチャーチでは、バイクを盗まれることは珍しいことではありません。
 それどころか、クルマでさえもステアリングロック――ステアリングに組み込まれているそれではなく、U字型をした堅固な外付けの錠のことです――をしておかなければ安全とはいえません。

 いや、ステアリングロックをかけていてさえも車を盗まれた知人もいます。
 かれは盗まれたことを悔しがるよりも、『ステアリングロックはしておいたから、左にしかハンドルを切ることができないはずなのに、どうやって持っていったのだろう』と言う具合に、しきりに不思議がっていました。

 まるで推理小説のトリックのようです。

 わたしの推理は『針金でドアのロックを外し(やってみるヒトがでてはまずいので方法は書きません)パーキングブレーキを外し、ギアをニュートラルにしてからレッカー車のようなもので前輪を浮かせて引っ張っていったのではないか』というものでしたが、 かれの結論は『窓ガラスを割ってU字ロックを溶接機で焼き切ったのであろう』というものでした。
 ここの国の人のメンタリティーを考えると、確かに後者のほうが説得力があるような気がして、わたしも大いに納得したのでした。

さて、ここからがわたしの話ですが、今朝起きて、いつものようにバイクに乗ろうとしたところ、愛車NS400Rはその影もかたちもなくしていました。
 留守中に子供を獲られた親鳥のように、わたしは狂ったように周囲を探しまわりました。
 ありません。
 あらためて周囲を確認し、『愛車はもうここにはないのだ』ということを納得したわたしは、すぐに警察に足をはこび、レポートを届けてきました。

しかし、盗まれた、という実感がいまだにわきません。
 あいつは――NSは、自らその道を求めてどこかに旅立ったような気がしてならないのです。
 『そんなはずはない』と承知していても、眼をとじると、払暁の空の下、音もなく、すべるように走り出していくNS400Rの姿が浮かぶのでした。
 いま思うと、昨日、リトルトン港までツーリングに行って帰ってきたのがお別れだったのですね。

 さよなら、NS400R。

さて、おセンチな気分はここまでにして、さっそくつぎのバイクを物色しています。わたしは基本的にオプティミスト(楽観主義者)でリアリスト(現実主義者)なのです。
 センチメンタリズムとペシミズムでは物事は解決できません。現実を救えるのは現実の行動です。そう、行動あるのみ。

 ひさしぶりに東方が赤く燃えてきました。(※2)やってやるぜ。

 とりあえず明日の飛行訓練はバスで行くことにしました。こんなこともあろうかと(※3)、警察からの帰りにバス案内所で時刻表をもらってきておいたのです。我ながら抜け目がないですね。(※4)えへへ。
 実は、クライストチャーチの市バスに乗るのは生まれてはじめてなので、内心わくわくしてもいます。当地のバスについてのレポートは、明日の日記をお待ちください。

【注釈】
※1 U字ロック
 フォードの古めの車は、その構造上、U字ロックを取り付けられないそうで、土地のひとからは『イージー・フォー・ストールン(盗まれやすい)』と呼ばれて敬遠されています。

※2 見よ、東方は赤く燃えている
 わたしの敬愛して止まない『東方不敗』マスター・アジアの決め台詞です。

※3 こんなこともあろうかと
 わたしは一度でいいからこの台詞をいってみたいと思っていたので、今ちょっと幸せな気分です。

※4 我ながら抜け目がない
 『ほんとうに抜け目がなかったら、そもそもこういう事態を招かずにすんだのではないか』という説もありますが、この疑念はわたしの頭の中からは抹消しています。



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『バスラー総統なの。』
1998年3月10日執筆

さて、昨日の日記でお約束した『市バス体験乗車レポート』のはじまりです。
 クライストチャーチの市バスは20路線(正確な数は失念しました)ほどあったと記憶しています。この町ほどの広大な面積をカバーするには多少こころもとない路線数ですが、要所要所は押さえられているので、さほど不便というわけではないようです。

 料金は前払い制で、町の中心部カテドラルスクエアから空港までは『時間制限往復切符』で1ドル80セントです。(1NZ$≒80円)このキップは、4時間以内に戻れば復路がただになるのです。

 空港が町から25kmは離れていることを考えると、このバスは単車よりもはるかに経済的ということでしょう。ちょっと悔しい思いを噛み締めつつ、料金を払い、一番うしろの席に陣取りました。通学時間帯からずれていたせいか、普通の大きさのバスに7~8人の乗客という状態で、あまり人は乗っていません。

 そうこうしているうちに、バスが走り出しました。いつも単車に乗って走っていた道なのですが、バスの車窓から見ると、また違ったものに見えてきます。自分で運転していないということと高さが違うということで、まわりの家並み、そして趣向をこらされた庭がいつもより新鮮に感じられます。『ガーデン・シティ』をいつもとちがう、別の角度で見てみるのも、なかなかおもしろいものです。

 さて、車内はどうなのだろう、ということで周りを見渡したところ、バスの降りる場所を運転手さんに知らせるための、乗降用のボタンがないことに気付きました。

 降りるむねは口頭でつたえるのでしょうか、いや、それにしてはみんな静かです。

 いぶかしく思い、よく周囲を観察したところ、斜め前の席に座っていた白髪の老婦人が、天井隅をつたっているひもを引いているのをさりげなく発見しました。なるほど、これがボタン代わりなのか、と感心するわたし。確かにこれならスイッチの数が少なくて済みますから、非常に合理的です。 もっとも、すべてのバスがこの『ひも』を設置しているかというと、そうではなく、乗降用のボタンがついているものもあります。帰りにのった車体はボタン方式でした。

 わたしがバスを降りたのは、飛行学校にもっとも近い、空港の手前の停留所でした。ええ、バスもなかなか悪くないものです。すっかりバスを気に入ったわたしは、百年も前からバスを利用しているような顔をして復路を戻ってきたのでした。

一歩さん、こころあたたまる励ましの お言葉、ありがとうございます。まさに『単車乗りは単車乗りを知る』のですね。

 ライダーの単車への愛情たるや、言葉では説明しがたいものがあります。
 もう戻ってこないであろうと理性は判断しても、やはりどこかでかえってくることを期待してしまうのですよね。犯人が見付かったら怒りのライダーキックをお見舞いしてやりたいと思う反面、返してくれるならそれだけでもう十分だとも思ってしまいます。いや、大事に乗ってさえくれればそれでいい……

 いかん、センチメンタリズムがはいってきているぞ。

 単車は機械なんだ、あくまで道具なんだ、いのちのこもらない無機物なんだ……(自分に言い聞かせている)

というわけで、もうまったく気にしていません。( 本当か > 始祖鳥 )ただ、次の帰国予定が6月の末なので、現時点であたらしい単車を買うのが賢い判断か、現在あらためて分析中です。(自前の交通手段がないと、野鳥・動物観察に支障がでてしまうのですが、操縦訓練や買い出しはバス通いでもなんとかなるのです。)

 それから、先の発言と矛盾していますが、センチメンタリズムもペシミズムも、わたしは決して悪いものでははないと思っています。なにか日々苦悩する芸術家のようで、そこはかとなくよろしいではありませんか。



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『アンドロー梅田なの。』
1998年3月11日執筆

今日の更新で、FSF創作の部屋の人気ファンタジー作家であるlunaさんのホームページ、『星の天幕』へのリンクを追加しました。
 lunaさん、当地からのリンクをご快諾いただき、ありがとうございます。
 じつは、わたしは以前から『星の天幕』の日刊読者でありました。昨日、かの地のアクセスカウンタの400番をいただいたのはなにを隠そう、このわたしです。

 luna さん、新作とページの更新を、楽しみにしています。

一歩さん 日記についての話題です。
 件のアニメは『SF西遊記スタージンガー』で間違いありません。
 『最強ロボ・ダイオージャ』は良いですね。お供がデューク・スケードとバロン・カークスだったと記憶してしまいますが、かれらは公爵と男爵なのでしょうか、それとも単にそういう名前なのでしょうか。よく思い出せません。わたしは『風車のヤシチ』もとい『フローラ・シノブ』のファンでした。

 ほかに世界古典名作系列をSFアニメにしたものといえば、ほかでもない『銀河漂流バイファム』がそうではありませんか。話の骨子はかなり違ってしまっていますが、すくなくとも『宇宙版ヴェルヌの某作品』という売り出しかたをしていたような気がします。
 ヴェルヌといえば『海底2万マイル』を原案にした某作品がありましたが、これは原作がもともとハードSF(!)だったわけですから、ちょっとニュアンスが違うかもしれないですね。
 ならば、世界名作劇場の『ピーターパンの冒険』はどうでしょう。物語中盤で巨大ロボットが出てきます。(巨大ロボットが出てくればSFかい>始祖鳥)この作品、ニュージーランドで再放送中なのです。

 『宇宙の騎士テッカマン』は名前の響きを拝借しただけかもしれませんが、グッドネーミングだと思います。タツノコ作品は名前の付け方のセンスがいい味をだしていますよね。テッカマンにしても、悪役の宇宙軍団がそのものずばり『ワルダスター』という名前であったり、『アンドロー梅田』という名前の宇宙人(作中では異星人とは言っていなかった)の相棒がいたりして、名前の付け方がなんとも脳髄感覚で素晴らしかったです。
 サンノー星人のアンドロー梅田は妙に格好よかったですね。アフロヘアーにパンタロン、テレポートするときにいちいち妙なポーズをとるのが奇怪でありつつも素敵でした。  のちにイデオンやボトムズにも登場しているところを見るとかなり人気のあったキャラクターであることは間違いありません。(そうか?>始祖鳥)
 ええ、アンドロー梅田はすばらしいです。キャラクターもネーミングもすばらしい。これに対抗して『ギャラク牛居(うしい)』というネーミングはどうだろう、という話題がむかし仲間内であがったことを思い出しました。

これまた一歩さんの日記からの話題、 デモゴーゴン についてです。
 『タイタニック』で「バーチャル俳優」が活躍していたとは知りませんでした。そうですね、恐竜を動かせてしまうのですから、人間も動かせるのでしょうね。コストさえかければ、どんな映像でも実現できてしまう時代なのかもしれません。凄いことです。
 『タイタニック』は評判が良いですね。まだ見ていませんが、平日夜に見にいこうかと思っています。

 パニックものの話ですが、『ダイ・ハード』はパニックものにはいれてもらえないのでしょうか。話は変わりますが、ブルース・ウィリスが『ジャッカルの日』のジャッカルを演じるのはなんとなく違う気がしてならないです。(話が変わりすぎだ>始祖鳥)

外は珍しく大雨が降っています。
 中庭の木にクロウタドリ(Blackbird:Turdus merula)が羽を休めています。



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『ダンディズムなの。』
1998年3月12日執筆

今日、買い物の帰りに、煙草のパイプを取り扱っている店を発見しました。 いままでもこの道は通っていたはずなのですが、店の存在にまったく気付きませんでした。単車で買い物にいっていたせいですね。たまには、歩いてみるのもいいものです。

 わたしは、以前から『パイプ』というものにある種のあこがれを感じていました。特に煙草が好きというわけではありません。しかし、パイプを片手に思索を巡らす姿は名探偵ホームズのようで、そこはかとなくよろしいではありませんか。

 そういうわけで、いっそ一本買って帰ろうかと思ったのですが、持ち合わせがなかったのと、スーパーマーケットのビニール袋をさげたままパイプ専門店にはいることは、どうもダンディズムに反する行為であるような気がしたので、今日は店の位置だけを確認して帰ってきました。明日あらためていってみようと思っています。

今日のもうひとつのトピックスです。
 パイプ屋さんからの帰りに、黒いとがった帽子に黒い服という、いわゆる魔女の扮装をした女の子が町をあるいていました。
 なんだろう。ハロウィンの季節でもないですし、店の販促でしょうか。
 ――とカタギのひとは思うのでしょうが、わたしは思わず『もし、この女の子が本物の魔女だったら』というばかばかしい思考をしてしまいました。
 そうだとしたら、これだけ堂々と往来にでてこられると、かえって分からないかもしれませんね。ううむ。

一歩さん 日記から、『世界名作系列児童文学をSFアニメ化したもので売れたものがあるか』という話題です。

 『某ブルーウォーター』はわたしもあまり好きな作品ではありません。冒険もののうわべだけをなぞったような印象を受けてしまうのです。この種の作品を、わたしはどうしても『宝島』『未来少年コナン』と比較してしまうので、点が辛くなってしまうことはあるかもしれませんが、それでもやはり好きではありません。『某ブルーウォーター』ならば、『七つの海のティコ』のほうがはるかに好みです。(※これはあくまでわたしの好みの問題です。)
 原作は『冒険もの』というよりは、当時最先端の博物学、海洋生物学の知識を投入した『ハードSF』なのですよね。潜水艦などのメカニックが評価されていますが、なんのなんの、海洋生物学の視点から見てもマニアックな作品なのですよね。ヴェルヌは凄いです。

 『宇宙船サジタリウス』=『ムーミン』説には悶絶しました。
 キャラクターデザインの点で見るとまさにそのとおりかもしれません。
 すばらしい。

 『宇宙の騎士テッカマン』のネーミングは「鉄仮面」からきているのは間違いなさそうです。根拠としてはただそれだけで、わたしとしてはなんとか理由をつけて『アンドロー梅田』の話をしたかっただけなのでした。

 モチーフとしての存在も考慮するのなら、『鉄腕アトム』が『ピノキオ』であるという話もありますね。これは手塚治虫自身が言っていたとおもいます。とはいっても話自体は全く違うものなのですよね。

 「パニック映画分類一考」における『ダイ・ハード』の分類は納得です。シチュエーションとしては明らかにパニック映画のそれなのですが、確かに路線としては違うものなのかもしれないですね。
 そうそう、「大ハード」には爆笑しました。

昨日付けで、当地のアクセスカウンタが400件を超えました。ここをご愛読くださっているみなさん、ほんとうにありがとうございます。今後ともご愛顧のほどをどうぞよろしくお願いします。
 ちなみに、のべ400人目のアクセスをしてくれたのは、わたしの妹でした。(なんてローカルな……)
 アクセスしてくれてありがとう。はやくハンドル(パソコン通信上で使うペンネームのようなもの)を決めてくださいね。>N嬢
 実名はさすがにさしさわりがありそうなので、呼びにくくてしょうがないのです。(^^;

今朝のアクセスで、 ぴか さん が日記コーナー 『雑想鬼』 を開設しているのを発見しました。あわててリンクコーナーのアオリを追加するわたし。
 ぴか さんのお話は知的におもしろいので、これを日刊連載で読めるのはとても嬉しい状況です。これからの展開が楽しみです。

しかし、日記の存在は、アクセスカウンタの上昇率に明らかに関与するようですね。
 データをとっていなかったために具体的な数字をあげることはできませんが、主観としては日記の開始後、一日当たりで5割程度の増加をみたような気がします。もちろん、他の原因(リンクの追加など)による可能性もあるので一概には言えないかもしれませんね。

 実験といえば、今週末あたりに当生息地をどこかの検索サイトに登録してみようと思っています。上昇率がどの程度変化するのか、なかなか興味深くもあります。(わたしは『ほとんど変化しない』という結果を予測しています。)
 しかし、キーワードやカテゴリ、アオリ文句を考えるのは、おもいのほか面倒な作業ですね。例えばNIFTYの検索サービスなどはカテゴリの指定が必要なのですが、当生息地をはたしてどういうカテゴリに分類していいものか、頭を抱えてしまいます。
 やはり、手始めに手間のかからないところ、ロボット検索をしてくれるところで試してみることにしましょう。



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『さらにダンディズムなの。』
1998年3月13日執筆

『わたしはパイプが欲しいのであります』

 店に入るなり、わたしはこう言った。割合イメージ通りの声が出せたような気がする。
 昨日発見したパイプ専門店の、おだやかな物腰の老店主は、パイプを何本か見せてくれた。

 とりあえず道具がわからないので、20数ドルの安いものを買う。桜の木から削り出したもので、形もなかなか気に入ったものだった。あとはタバコの葉を買えばOKだ。楽なものである。わたしは続けた。

 『それから、パイプ用の煙草も欲しいのであります』

 ここでなぜか(テレホン)カードを出されてしまってうろたえる。予想外の展開だ。わたしの発音が悪かったのだろうか。それとも店主の耳が遠いのだろうか。判断が付かない。
 そうではない、わたしはタバコが欲しいのである、と力説する。分かってもらえた。しかし、銘柄はなにがいいかと聞かれ、ふたたび動揺するわたし。今日生まれてはじめてパイプを握ろうというノービス初心者に銘柄などわかろうはずがない。
 『パイプは始めてなのです。おまかせします』
 店主はにこやかに『AMPHORA』という銘柄のタバコの葉を取り出してくれた。50gで20ドルのタバコだった。

 さて、住処にもどり、パイプとタバコを入れた紙袋を開封する。
 わたしは、開高健や渋澤龍彦がパイプについて文章を書いていたのを記憶している。確かに記憶しているのだが、どんな内容だったのかは記憶していない。つまり、かれらのパイプに対するこだわりに、わたしはいたく感銘を受けたのは間違いないのだが、パイプを吸ううえで具体的にどうすればよいかという点においては、この記憶は全く役に立たないわけだ。とにかく、どんなことにも初めてということはある。わたしはとりあえず練習してみることにした。

 パイプを点火するには、それなりのコツがあるそうなのだ。
 『点火時に思い切り吸い込む』『詰めすぎてはならない』
 ほかにもあるとは思うのだが、わたしが教えてもらったことはこのふたつである。

 点火時に思い切り吸い込まなければいけない、というのは直感的に分かる。充填率が高すぎると点火してくれないし、かといってゆるく詰めるとすぐに燃え尽きてしまうというのも分かる。しかし、その加減というものはなかなかに熟練を要するものだ。とはいえ、しばらく繰り返すうちに、適切な充填度と、点火時の要領が少し分かってきた。こころもちゆるめに煙草を押し込むのがこつのようだ。

 しかし、パイプのくわえかたは思いのほか難しいことに気が付く。
 口にあたる部分がプラスチック製なのだが、そこに唾液が付いてしまうのである。間が悪いことに、口当ての部分はつや消し黒なので、これが余計に目立つのだ。口元がてかてか光った状態はあまりダンディなものとは言いかねる気がする。わたしは頭を抱えてしまった。 (この問題が解決したのは、浅めにくわえれば良いのだ、と気付いてからのことである。)

 そういうことを繰り返しているうちに、わたしはパイプの裏面に文字が彫ってあることに気付いた。そこには、よりによってこう書かれていた。
 『MADE IN FRANCE』
 うぬう、とわたしはつぶやいた。
 NZでくらす大部分のひとの例に漏れず、わたしはフランスは嫌いである。数年前の核実験強行以来、わたしのフランス嫌いは筋金入りのものとなった。安くて使い勝手の良かったオピネルのナイフも4年前から使用をやめ、かわりにドイツ製のものを使っている。とにかく、フランスは嫌なのだ。

 しかし、一度使ってしまったものをいまさら返品するわけにもいかないし、いまさっき買ってきたばかりのものを捨てる気にもなれない。次回から気をつけることにしよう。

 2時間ほど練習を繰り返すうちに、どうにか余裕が出てきたので、『パイプをふかしながらものを書く』ことに挑戦してみることにした。
 憧れのスタイルである。要はこれがやりたかったからパイプを買ったようなものだ。 さぞかし筆も進むだろう、すばらしいことだ、今年こそは執筆中の小説を完成させるのだと、勢い込んでノートをひろげようとしたそのとき、わたしはパイプのやり場がないことに気付いた。
 パイプは当然ながらパイプのかたちをしているから、そのまま置いては倒れてしまうのだ。つまり置く場所がないので常にくわえているか、手に持っているしかないのである。なるほど、パイプスタンドとはそういうものだったのかと、今更ながらに納得する。明日買ってくるか、作るかしなければ、と思いつつ、パイプをしまおうとしたところで、わたしはまたしても硬直した。
 いかん。パイプを持ち歩くのにはパイプケースというものがいるのだった。とりあえずしまう場所に困ったわたしは、パイプを布でくるみ、フリースのポケットのなかに押し込んだ。心の中で、パイプケースを明日の買い物リストに追加して、わたしは文章書きに没頭したのだった。

 その一時間後。
 なにげなくベッドに腰を下ろした瞬間、湿った雑巾に包んだ乾いた小枝が折れるような音がした。
 下を見る。
 わたしは、さきほど無造作に脱ぎ捨てたフリース――とその内容物――を踏みつけにしていたのだった。

 明日は、接着剤も一緒に買ってこなければなるまい。

毎度ながらの 一歩さん日記 から話題を拝借です。ぴか さんlunaさんも日記をはじめられましたから、当分の間ネタには不自由しそうもありません。ふはははは。これでジオンはあと10年は戦えるぞ。(そうか?>マ・クベ始祖鳥)

 『宇宙の騎士テッカマン』についての話題ですが、「鉄仮面」という世界名作はあったような気がします。物語の筋が思い出せません。
 『侵略して来た種に寄生されてて記憶を無くしてる主人公が故郷を守る為に闘う』のは『テッカマンブレード』ですね。『テッカマン』は『宇宙からの侵略者に父を殺された主人公が地球製の技術で超戦士になり侵略者と戦う』というお話だったと思います。

 『未来少年コナン』ですが、わたしは残念ながら『残された人々』は読んだことがないので、比較検討はできないのです。ただ、この作品そのものはわたしのなかで特別な位置を占めています。放映当時は、火曜日の7時半が本当に楽しみでした。
 実は、わたし、プレーヤーも持っていないうちから、これのLDを集めていました。  一年近くと7万円をかけて、ようやく7枚そろったその数ヶ月後、7枚組みのLDBOXが4万円で売り出されて愕然とした記憶があります。しかもBOX版はデジタルサウンドというオチつき。(;_;) LDの装丁は旧版の方が好きなのですが、あれはショックでした。
 しかし、ギガントはそうだろうと思っていましたが、ジムシーは原作には出てこないのですね。知りませんでした。
 それにしても、なぜダイスなのだ? >モンスリー女史

一歩さん日記から、検索エンジンへの登録の話題です。
 ぎくう。
 『検索される価値があるのか』『責任を持てるか』という問いは胸にささります。
 登録はちょっと待とうかな、と考え直しました。(^^;

 わたしもまだ破廉恥な言説や著作権法違反で死刑になるのはやはり嫌ですからね。
(そういうことをするつもりなのか>始祖鳥)

 それから、『日記猿人』『ReadMe!』についての情報ありがとうございます。さっそくこれから巡回してみます。

これまた 一歩さん日記を読んで、 lunaさん が日記コーナー 『月の裏側』 を開設されていたことに気付きました。『砂のしとね』からリンクをはられていたのですね。一歩さんに指摘されなければうっかり見落としてしまうところでした。(^^;

 ”THE OTHER SIDE OF THE MOON”というフレーズは格好良いですね。ギャビン・ライアルの小説のタイトル、『ちがった空(THE ANOTHER SIDE OF SKY)』を連想しました。

 当地の日記をお褒めいただきありがとうございます。しかし当地は、開設経緯、現状の両方の意味において、一歩さんの日記の分家のようなものですから、面白いとするならそれは一歩さんのおかげだと思います。

ぴか さんが日記を改題されていました。例によって、早速リンクコーナーのアオリを追加しておきました。しかし、日付どころか時刻まで入っているというのは、『一日に何回も書き込むのですよ』という意思表示なのでしょうか。凄すぎます。

 『ネコジャラ市の11人』とはタイトルの雰囲気から察するに、人形劇なのでしょうか。(わたしがはっきりと記憶しているのは『笛吹き童子』『紅孔雀』以降なのです。)

 『千面鬼』は、発音は四畳半的な情けなさなのですが、字面は格好良いですね。『仮面ライダーアマゾン』の前半の敵役、『十面鬼』を彷彿とさせます。



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『夏時間終了なの。』
1998年3月14日執筆

今日は久しぶりに暑い一日でした。飛行訓練をおこなった際に、空港のATIS(※1)が『気温29度』というアナウンスをしていました。数日前は20度をわっていたというのに、この変化はあんまりです。
 補足するならば、摂氏29度とはもちろん外気温の話で、機内温度計は42度を示しています。空中にいるときはベンチレーションが有効にはたらくのと、外気温がいくばくかは低いのとでまだましなのですが、地上での取り回しは地獄です。訓練で使っているC172スカイホークIIはパイロット側の窓がちょうつがいで開く(※2)だけなのです。昔の飛行機のように風防を全開にできればよかったのに、と思いつつ、タキシング(※3)は扉を開けておこないました。暑かったですねえ。

また、こういう無節操に暑い日は、あちこちで乱気流が発生します。機体が突然木の葉のように落下したりします。高度があればなんてことのない着陸寸前、高度90ft(約30m)で3次元であおられるのは心臓に悪いです。(※4) 常に一定の風が吹いているぶんにはかまわないのですが、風向きが層のごとく高度によってわかれていたり、巻いていたりするとこうなってしまうのです。

明日の日曜日の夜中でサマータイムが解除されます。今までは日本との時差は+4時間、つまり、日本の午後8時はこちらの午前零時だったのですが、夏時間が終わることで、日本との時差は3時間になります。
 つまり、明日は一日寝坊ができるということですね。

今日はアメリカの南極観測隊員のお話を聞ける機会にめぐまれました。南極調査プロジェクトからの帰りでさきほどニュージーランドについたばかりで、明日午後1時にアメリカに戻るのだ、と言っていました。実にラッキーです。
 すっかり意気投合して、午後6時頃から夜11時近くまでずっと話し込んでしまいました。今日の日記の内容が薄いのはそのせいです。この成果はいずれ別のかたちで発表させていただくつもりです。ごめんなさい。
 ヒョウアザラシやシャチの話、南極の魚の不凍液についての話、C130輸送機の中はぎゅうぎゅう詰めだったという話、大型飛行機やヘリだけではなく、軽飛行機型の観測機が活躍しているという話、その他もろもろの面白い話をいろいろ聞かせてもらえました。
 いまさらながらですが、メモを取っておけばよかったと後悔しています。Eメールのアドレスを交換したので、わからないことはあとから質問させてもらおうと思っています。日本の生物についての情報とエクスチェンジです。えへへ。

 そうそう、南極関連のウェブサイトもいくつか教えてもらいました。

南極関連サイトその1
南極関連サイトその2
南極関連サイトその3
ドッグパイル・サーチエンジン

最上段のものは一般向けのサイト、2番目と3番目のサイトのどちらかはフランス語で書かれていますが写真がきれいだとのことでした。最下段のリンクは、かれによると、もっとも強力なサーチエンジンのひとつで、一押しのものだそうです。  これからわたしも上記のリンクを試してみるつもりです。

【注釈】
※1 ATIS
 空港の自動情報アナウンスです。エイティス、と発音します。使用する滑走路、気温、風向、気圧、視程などが、自動でアナウンスされる仕組みです。

※2 窓がちょうつがいで開く
 セスナC172スカイホークIIの場合、ちょうつがいは窓の上側についていますから、下が外側に開く作りです。暑い日のタキシング中などは、これを左ひじでおさえながら(飛行機の機長席は左側です)操縦をしたりします。

※3 タキシング
 飛行機を地上で取り回すことをこう言います。

※4 高度90ft(約30m)で3次元であおられるのは心臓に悪い
 飛行機の操縦でもっとも危険なのは離陸直後です。高度をまだかせげていないため、つまり滑空して不時着ができない状態だからです。



[目次]
『魂の所在』
1998年3月15日執筆

夏時間は昨日で終わり、今日からは標準時間です。 時差ボケで眠いです。

一歩さん日記 より話題を拝借です。ネタ恐慌を引き起こさずにすむのは、ひとえに一歩さんのおかげです。いつもありがとうございます。

 話を戻しますが、『肉体と脳、魂の所在』についての話題です。

 わたしは、ひとの内部と外部を区別する根拠、その境界について、以前から考えていたことがありました。
 出典がおもいだせませんが、動物関係のエッセイに『イヌは鼻で世界を見ている』という内容のものがありました。このエッセイの論旨は、イヌは鼻に感覚の重きをおいているため、かれらのの感じる世界では、わたしたちの肉体は風下に薄くのびている、というもので、わたしはこれにいたく感心した覚えがあります。世界の切り取りかたの違い、そしてイヌから見た『対象の境界』、そしてひとのとらえている境界が、はたして真実のものなのか、という点で非常に考えされられるお話でした。

 このことについていくばくか考えた末に達した結論なのですが、そのひとを構成する要素のひとつとして、その『雰囲気』――文字通りの意味で――も含まれるのかもしれません。地球が大気を雰囲気としてまとっているのと同じく、そのひとの周囲に広がるなにかも含めて、そのひとはそのひと足り得るような気がしてならないのです。

 それは上記の例のような『におい』に限らず、そのひとが愛用している道具であったり、そのたたずまいであったり、住居であったりします。これらはある意味で肉体の延長線上にあるものといえます。いろいろな意味でこう言えますが、わたしたちは自分のまわりにある環境を引きずりながら生きているのです。物理的な意味でも、心理学的な意味でも、文化的なものでもきっとそうなのだ、と感じています。環境もまたそのひとの一部なのです。

 そのひとをそのひと足らしめるにおいて『脳』の重要である気がしますが、一歩さんご指摘の通り、それだけがすべてではないような気がします。そのひとをそのひと足らしめているものを『魂』と呼ぶのならば、『魂』とは、風下に薄く流れる『におい』のごときものなのかもしれません。わたしたちの存在はそのまま宇宙であり、宇宙はまたわたしたちの存在なのでありましょう。

これまた 一歩さん日記 からの話題です。
 一歩さんも言われているとおり、日記は構成や落ちを厳密に考える必要がないので、気楽でいいですね。(これはわたしの駄文の場合です。真摯に日記を書いているみなさん、ごめんなさい。)唯一困った問題は、毎日書かなければならない、という強迫観念にとりつかれてしまうことです。 わたしの場合『創作量に影響がでる』ということはないのですが、(もともとしていないから当然だ>始祖鳥)疲れていようが眠かろうが一文をひねりださないことには寝るに寝付かれず、書き終えてからは甘美な達成感に身を任せつつ燃え尽きて真っ白な灰になってしまうのでした。

 しかし、この日記もいつのまにか一月を数えていたとは、飽きっぽいわたしにしては奇跡的、かつ驚異的なロングランです。
 当地をお読みくださっている皆さん、いつもありがとうございます。今後ともよろしくおねがいします。



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『自己の境界』
1998年3月16日執筆

夏時間は昨日で終わり、今日からは標準時間です。 時差ボケで眠いです。

ぴか さん日記、そして 一歩さん日記より、『個人の境界』についての話題です。

 わたしは、有名な『我思う、ゆえに我あり』という言葉には、かねてから異論を持っていました。
 なぜならば、『自身』が存在するのを意識することは、それに対峙する『自身以外』の存在をどこかで認めているからであり、『自身以外』をあえて区別する必要があるのは、良い意味、悪い意味の両方について、『必ずしも自分の意にそわない』存在があるがゆえでもあります。『我』が存在するのはそれが事実にせよ虚構にせよ『我以外』が存在するがゆえで、決して『我思う』からわたしが存在するわけではない、というのがわたしの意見です。

 ここでいう『自身以外』の存在は、あるときは『他の個体』だったり、自然環境であっします。しかし『自分の意にそわない』点では―― ぴか さん『行動を制約する存在』というかたちで見事に 論じて おられました――肉体もまた他者と言える存在であり、また自身の感情や理性も『意に沿わない』点でそうかもしれません。わたしたちは、こころの中に『自身以外』を住まわせています。ものごとに対して葛藤が起きるのはそのためなのでしょう。

 つまり『自己の中に他者はあり、他者の中に自己はある』ということでもあります。
 また、『魂』は『他者』である『肉体』と切り離しては存在しないということ――という言葉が非科学的にすぎるならば『自意識』と言い換えてもかまいません――その時点での『自意識』はその属性とともにあることも意味しています。

 そして、属性とは、言い換えれば自分自身で考えるところの『自身以外』のことでもあります。

 結論を言えば、他の個体の存在、周囲の環境、文化などの属性を伴ってこそ『自意識』『自身』はそれでありえるものであり、それは『脳』だけでなりたつものではない、ということがわたしの意見でした。

 ですから、わたしは 一歩さん意見 (『脳≠意識』)に反論する意図はなく、むしろ賛成の意図だったのですが、書き方が冗長でわかりにくかったでしょうか。
 ごめんなさい。

一歩さんがわたしの壊れたパイプについて ご心配くださっていました。ありがとうございます。というわけで、 パイプのはなし の後日談です。

 亀裂を入れてしまったのは、パイプの管の部分です。管の下側が、木目に沿って縦に割れてしまったのでありました。それほど熱くなる部分ではないので接着剤でもなんとかなりそうですが、とりあえずは細い針金で縛って対処しました。多少格好悪いのを別にするなら、現状では問題なく使えています。

 自分でパイプを削り出す、というのはすばらしいですね。是非ともやってみたいのですが、まずは道具を使いこなすことができるようになってから挑戦したいです。恥ずかしい話ですが、いまだ連続して火をもたせることができないのです。パイプに詰めた煙草を燃やし尽くすまでに、5、6回点火するはめになります。つまり、それだけの頻度で火が消えてしまっているということでもありますね。精進が必要です。

luna さん一歩さんからの 引きに答え、 ヨットのお話 をなさっていました。思わずメモをとるわたし。詳しい専門用語がわかりませんが、とても興味をそそられます。当地の読者の皆さん、とても面白いので、必見です。

 当地を『余人が読むに足るページ』と言ってくださり、光栄です。ネタ的には 一歩さんぴか さん にほぼ全面的に依存していますので、あまり胸をはれないですね。(^^;



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『わたしがバイオスフィア2に懐疑的な理由』
1998年3月17日執筆

先日話題にした 『バイオスフィア2』 についての続編です。昨日、 ぴか さん明快なご説明 をいただき、かの実験の目的は自律する生態系の実現ではなかった、ということが分かりました。ご説明ありがとうございます。

 ご指摘のとおり、内部の生態系に対して人為的な介入を行なうということは、閉鎖環境において自律する生態系をつくることは、はじめから考慮されていなかったことを意味していますね。食料や酸素などについて 『原則として自給自足』 ということをアナウンスで前面に押し出していたような記憶がありましたので、それで刷り込まれてしまっていましした。よく考えてみると、確かに『自給自足=自律する生態系』であるとはいえないのですね。
 閉鎖環境におけるサバイバルの実験だった、という解釈も了解しました。
 ただ、わたしが『バイオスフィア2』について懐疑的な理由はむしろ別の点にあります。
 バイオスフィア2の実験目的は、以下の2点のいずれか(あるいは両方)にあったと考えられます。

(1) 『地球上に近い環境』を、閉鎖環境に(宇宙空間、月面基地など)実現するうえでの問題点の検証
(2) 閉鎖環境において、生態系を利用した『物質の循環システム』を実現するうえでの問題点の検証
 単なる閉鎖環境におけるサバイバル実験なら、2年分の必要物資を持ち込めばすむことであるように思いますので、この実験に『特定の閉鎖環境において物質を循環させる』システムを構築する意図があったことは間違いなさそうです。少なくとも、アナウンスで『自給自足』という点を強調していたことを考えると、(1)よりは(2)のほうが実験意図に沿ったものであるような気がします。

しかし、『物質の循環』を考えるのなら、人間の出す二酸化炭素や老廃物をいかにして再利用可能なかたちに還元するか、というところに焦点を絞ったほうが、閉鎖環境のサバイバルについて有効な実験結果を引き出せそうな気がします。つまり、分解ブロック、光合成ブロック、とそれぞれが完結した区画ごとに分けたほうが、影響が全体に及ばないという意味で、人為的なコントロールもしやすいような気がするのです。
 わたしは多種多様の生き物によって構成される生態系というものが好きですし、それをスペースコロニーや恒星間宇宙船に持ち込むことに、ロマンを感じるひとりです。
 ただ現実的に、極限状態に壁をへだてた閉鎖環境でのサバイバルを考えた場合、地球上の生態系をまねて巨大な『箱庭』をつくることが合理的な措置かと問われれば、わたしの答えは『否』です。 『バイオスフィアモデル準拠』 というかたちの宇宙基地、宇宙船は、鳥をそっくりそのまま真似て羽ばたき飛行機をつくった先人がことごとく失敗したのと同じ轍を踏むような気がするのです。

また、『バイオスフィア2』のアプローチで得られるのはあくまでも『その閉鎖系における経験則』であり、必ずしも普遍的な結果ではないような気がします。

 たとえば、他の閉鎖系に『バイオスフィア2』の経験則を持ち込んでも、初期条件や、その後に与えられるパラメータがごくわずか違うだけで、まったく違った結果を招いてしまう(これを『バタフライ効果』と呼びます)可能性がある以上、その経験則の大部分はおそらくその閉鎖環境内でしか役に立ちそうもありません。

 もちろん『経験則』は重要です。建材が酸素を吸収してしまうなど、当初予測できなかった要因を洗い出すという意味では有効ですし、むしろそのためにこそ実験をおこなうわけですが、生態系はカオスでもあります。
 カオスを扱う学問としては気象学がありますが、それに近いアプローチで、ひたすらデータを取りつづけるしかありません。『予測する』ことに主眼を置く気象学の世界でさえも、数十年にわたる観測結果を蓄積しているというのに、対象を能動的に制御する必要のある 『バイオスフィア2』 の2年間は短すぎます。実験を行なうなら、長期的に継続して欲しかったと思っています。

さらに、別の観点からみても2年間という期間は短すぎるような気がするのです。

 ただ、種数を限ることで、当初予想もしていなかった『再利用できない有機物』が蓄積されていくことも考えられます。『特定の有機物』を分解すべき分解者がかけていた場合、ある生成物が延々とたまりつづけて(※1)いきます。たまりつづけるということは、つまり循環しないということでもあります。

 例えば、植物の主材料であるセルロースを例にあげます。セルロースは多糖類ですから、分解すれば養分になりますが、普通の動物はこれを分解できません。(※2)  つまり、セルロースを分解する微生物がいなかった場合、物質の循環はそこでとまりますから、それを分解できない動物たちはセルロースの堆積物の中で餓死することになります。

 この例は極端に過ぎるにしても、閉鎖環境内部で特定の生成物が累積していくということは十分にありえます。地球規模のように十分広い環境ならば、『分解不能物質』の増加に対して生物進化の速度が追従できますから、いずれはその有機物を分解できる生物が登場しますが、狭い閉鎖環境内の生態系では『分解不能物質』の存在は致命的なものになり得ます。

 この『バイオスフィア2』の実験を長期的に継続できれば、そういう物質の洗い出しをおこない、その対策を考慮することもできたことを考えると、これも残念な点のひとつです。

上記のような意味で、『バイオスフィア2』のアプローチにはわたしは懐疑的な意見を持っています。どちらかというと商業的な『演出効果』を感じてしまうのです。

 ただ、多くのひとびとにアピールするという点、つまり啓蒙的な意味ではたいへん大きな価値のあったものだとも思っていますし、将来にわたって、生態系に関する革命的な理論や実験結果が発表される可能性はおおいにありますので、この実験が意味の無いものだと決め付けるのもまた早計かもしれません。

【追伸】
 ぴか さん 、いつも知的におもしろい話題を提供いただき、ありがとうございます。

あわてて追加です。

 昨夜、日記の内容をアップロードし忘れていたことにさきほど気付きました。昨日巡回してくださった皆さん、ごめんなさい。
 次回から注意いたしますので、今後ともよろしくおねがいします。

【注釈】
※1 使えない物質が増えていく
 『使えない物質が増えていく』ことは『熱のはなし』のエントロピーの話題にも通じるものがあります。関連話題のインデックスがありますので、興味がありましたら、ご一読ください。

※2 普通の動物はセルロースを分解できない。
 ウシのなかまは胃の中にセルロース分解酵素(セルラーゼ)を持つ微生物を住まわせてこれに対処しています。昆虫ではシロアリもそうです。



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『アメ車発見』
1998年3月18日執筆

ぴか さんが昨日付けの 日記の中で バイオスフィア2についてお答えくださっていました。
 異なる空間(おそらく宇宙)での生活を具体的にイメージさせるということ、そしてメッセージ性という点でも説得力を持つことは、ぴか さんご指摘のとおりだと思います。

 わたしはこの実験の学術的な意義についてはほとんど評価していませんし、この点について考えを改めるつもりはありませんが、これを違う視点から俯瞰した場合、また別のものが見えてくる気がします。多額の費用と優秀な人的資源を投入しておこなった実験にしては、あまりにもお寒いものであると思う反面、総合的に考えた場合、この実験は必ずしも『無駄』とはいいきれないものであるのも事実ですね。

 今の科学的研究に決定的に欠落しているのは、一般社会への『プレゼンテーション』なのかもしれません。その意味では『バイオスフェア2』はエンターテインメント性に富んだ『ハリウッド製の映画』のようなものだったというべきなのでしょうか。
(※わたしは映画を卑下する意図も、この点についてバイオスフィア2を非難する意図も持っていません。)

これもぴか さんコメント頂きました話題です。
 有名な『我思う故に我あり』という言葉は 『思考しているということは自分がいることの証拠だ』ということではなく 『思考している何ものかがいると認識している、何ものかがいることは疑うべくもない』という意味を持っていたのですね。わたしは前者だとばかり思っていました。
 読者のみなさん、中途半端な知識で変なことを言ってしまい、申し訳ありません。ぴか さん、ご指摘ありがとうございます。デカルトの『方法序説』にはいずれ挑戦してみようと思います。

 今のようなバーチャル・リアリティーの存在するはずもない16世紀において、『認識と虚構』の関係について看破していたデカルトは凄いですね。
 視点が20世紀のSFの題材そのままである、というのは空恐ろしい気さえします。

 過去の哲学についてですが、たしかにその背景も考慮しなければそれを理解することはできないかもしれません。今後は気をつけようと思います。西洋と東洋の相違点ですが、ぴかさんもご指摘の通り、『自己と宇宙の融合』という点では東洋思想が西洋哲学に対してアドバンテージを持っているような気がします。

一歩さん、わたしのパイプの火がすぐに消えてしまう理由について『空気が漏れているのではないか』という ご指摘、 ありがとうございます。さっそく日本伝統の『ご飯つぶ』で隙間を埋めてみることにします。
 あっ、笑いましたね。ご飯つぶを甘く見てはいけません。米は、紙巻(手で巻くもの)たばこの『紙』の原料でもあるのです。そうです、米とたばこは由緒正しい関係なのです。

飛行場からの帰りに、何気なく駐車中の車をながめながら歩いていたところ、一台のウィンドシールド(前面ガラス)の内側に、"FOR SALE" の文字を発見しました。フォード・コルティナ・ステーションワゴン(※1)が800ドル(※2)で売りに出ていたのです。"FOR SALE"の下部にはオーナーのそれとおぼしき電話番号が添えられています。
 『善は急げ』とばかりに、その場で公衆電話を探すわたし。金曜日にオーナーに会って(値切り)交渉をするアポイントを取り付けました。

 確認したところ、半年ごとの車検(※3)は通っており、しかも今回分は8月まで残っていたので一安心です。タイヤの残り山とブレーキパッドなどの消耗品関係、バッテリー、電装関係などに問題が無ければ即決しようかと思っています。かつてスクラップ寸前の単車を何台も乗り継いでいるのでこういうことには目端が効くのであります。えへへ。

 しかし、盗まれやすいことで有名なフォードの旧型車です。盗難対策に、警報装置を買ってこなければなりません。いや、いっそ治安の良い郊外に引っ越したほうが良いのだろうかと思いあぐねている自分自身に気付き、苦笑するわたしです。
 もうすでに買った気になっている始祖鳥でした。

【注釈】
※1 フォード・エステート・ステーションワゴン
 アメ車です。(上記のコルティナというのは筆者の勘違いでした。この両者はたたずまいが似ているのです。付記・1998年3月27日
 後部ハッチが観音開きで開く、昔風のステーションワゴンで、年式はかなり古そうでした。おそらくエンジンはキャブレター式です。しかし、それだけに整備のしやすさは単車とさして変わらないでありましょう。ステーションワゴンだけにそのペイロードは恐るべきものがあります。もう引っ越しはこわくありません。毎時100km出したらばたつく程度のことは許容範囲です。雨の日には車に乗ろうなどとは思わず、歩くかバスにのれば良いのです。(そこまではひどくないかも)

※2 NZ$800
 これは日本円換算で64000円というところでしょうか。現在のレートはNZ$1あたり80円弱で推移しています。

※3 ニュージーランドの車検
 この国の車検はWOF(ワラント・オブ・フィットネス)と呼ばれ、半年に一回行なうことが義務づけられています。



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『アクセス数500到達』
1998年3月19日執筆

昨夜、アップロードの確認のためにアクセスしたところ、当地のアクセスカウンタが丁度500番を示していました。
 おめでとう、わたし。(自分でとってどうする>始祖鳥)

 これも、当ページをアクセスしてくださっている皆さんのご愛顧のおかげです。
 今後ともどうぞよろしくおねがいします。

当地の日記を読まれているかたのほとんどは、ご承知のような気がするのですが、luna さんが掲示板『焚火の前』を開設されていました。これにあわせて、リンクページにコメントを追加してあります。lunaさんの作品への感想、アーサー・ランサムやヨットのお話で盛り上がりそうですね。今後の展開が楽しみです。

luna さん日記から、 『魂の話』関連の話題です。

 かつては明らかに自分の肉体を構成していたものに『不浄』を覚えるというのはおもしろいことですね。この『不浄』という概念が生得的なものなのか、はたまた学習強化による文化的なものなのかということは、興味深い問題です。
 本題とはすこし離れますが、動物における排泄のコントロールから例をひいてみます。

 例えば、イヌやネコは決まった場所に排泄をするように訓練することができますが、それよりもはるかに知能の高いはずのチンパンジーは、いくら教え込んでも『一定の場所に排泄をする』という行動を習得できないそうで、かれらと一緒に暮らすには紙おむつが必須であるそうです。
 鳥や猿などの飛行性・樹上性の生き物は排泄を決まった場所で行なう必然性がないからなのだ、というのがこのことの説明としてあげられていました。このことから演繹すると、飛行性・樹上性の生き物は排泄物に対して『不浄』の感覚を持っていない可能性に思いいたります。

 これが人間の場合はどうなのかということを考えると、『排泄のコントロールをおこなえる』または『排泄物に不浄を感じる』という点で、『人間は樹上性の生き物ではなく、地上営巣性の生き物である』ということなのでしょう。
 あるいは、この概念には、後天的、文化的なものが関与している可能性もあります。
 この点についてはむしろlunaさんのご専門ですね。

luna さんパイプの話コメントを くださっていました。

 パイプの火が始終消えてしまうくだりには、わたし自身おもいあたる節があって、身につまされながら拝読させていただきました。
 がんばれ、ジム船長。(^-^)

 『パイプがあまり上手でない船長』というのは面白いですね。それほど老練ではない(若い)イメージのキャラクターが浮かんでくるような気がします。火が消えたときの反応や対処でも人物描写ができそうですね。

 ランサムの著作の紹介、ありがとうございます。Foxのペーパーバックなのですね。今週末に古本屋と図書館を当たってみようと思います。
 しかし、ヨットの知識をもたない門外漢が読んでも大丈夫でしょうか。英国製の海洋冒険ものは、容赦なく専門用語を使うので、ちょっと心配です。

ぴか さん日記からの 話題ですが、わたしはご指摘いただいたウィトゲンシュタインの著作も読んでいません。勉強不足を痛感しています。
 次に日本に帰国したあかつきには、哲学関係の本と取り組み、少しでも議論についていけるようになりたいと思っています。

 『多様性』というのは『相対化』とならんで、このごろ流行のタームですね。
 従来、絶対であるとされていた価値基準が次々に崩壊するに及んで、『多様性』というかたちで事象を濾過するのがもっとも『合理的』であると西洋の思想家たちが判断した結果なのでしょう。

 一神教的な『絶対』の価値観が崩壊したのちに、残されるのは虚無と混沌です。『神』――思想における『マクスウェルの悪魔』――が死んだ以上、思想のエントロピーはとめどなく増大しつづけます。

 また、ひとは誠実であろうとすればするほど、なにもできなくなってしまいました。『果たしてそれはほんとうに正しいのか』と言う命題に、もはやだれも答えることはできないのです。わたしたちは『神』と一緒に『正義』も殺してしまったのかもしれません。

 なにが正しいのか誰にも判断がつかないのならば、正しいかどうか判断の付きかねる対象と『共存』をはかるほかないのかもしれません。(それが他の『多様性』を侵さない、という条件付きではあります。)これが一般にいわれるところの『多様性』なのでしょうか。(生態学でいうところの『多様性』とはニュアンスに多少差異がありますが、この事については機会をあらためて筆をとらせていただきます。)

 この『多様性』という概念には少なからず東洋思想の影響があるように見えますし、わたしたちはそれを誇っても良いと思います。ただ、東洋的な現世逃避、諦観主義をわたしはあまり評価していません。わたしの主観では、行動しなければ解決できないことのほうがこの世界にははるかに多いような感がありますし、現実を救えるのは現実の行動でしかないような気もするのです。

昨日話題にしたデカルトについて、さきほど疑問が出てきました。

『我思う故に我あり』、つまり『思考している何ものかがいると認識している、何ものかがいることは疑うべくもない』という論理が成り立つうえでは、『観測している何ものか』の存在を認知している何ものかが存在していなければならないわけです。
 言いかえれば、自意識下の複数の何ものかが『あなたは存在しています』とお互いに確認しあっているわけで、この『相互に存在をささげあう』事象の始まりと終わりはどこにあるのかということを考えると、これはメビウスの輪かウロボロスの蛇のごときものに収束するような気がします。

 これは詭弁とまでは言えないまでも、循環論法であるような気がするのですが、このあたりについてデカルトはどのように説明しているのか、少なからず興味があります。



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『哲学っぽいはなし』
1998年3月20日執筆

luna さん日記からの話題です。

 アーサー・ランサムの著作ですが、さきほど図書館に行ったところ、児童文学のコーナーにありました。
 lunaさん推薦の "We didn't Mean to go to Sea" そのものはありませんでしたが、"COOTS IN THE NORTH" という短編集がありました。ヨットのはなしでした。
 閉館間際のプレッシャーのもと、表題作を斜め読み(ごめんなさい>ランサマイトの皆さん)したところ、子供たちが真夏のボート寄港地の喧騒を離れて、数人で北に旅立つ話のようでした。明日も訓練なので、日曜日に図書館に腰をすえて読もうと思っています。

 "COOTS IN THE NORTH" で思い出しましたが、lunaさんのリンク集にいらっしゃる『COOTさん』のハンドルはここに由来しているのでしょうか。
(『鬼号』のモデルとなったヨットも拝見しました。)

ぴか さん日記からの話題です。
 前言を翻してしまいますが、『多様性』は『個々人が違うことを認める』意味で、東洋のものではないという意見はそのとおりだと思います。『個々人が違う』という考え方は、まさしく西洋的なものですね。

 後段で、ぴか さんが、差別と人権について言及されていましたので、差別の構造について考えていたことを書いてみたいと思います。

人間は対象をそれとしてとらえる場合、それをいちど記号化(抽象化)する必要がありますが、記号化とは分類の作業でもあります。記号化システムのひとつとして『言語』を考えた場合、例えば『イヌ』という対象を選択したとき、そこには『言葉』にともなう属性が発生します。

 飼い主に従順である、猿と仲が悪い、鼻がよい、頑丈な犬歯を持っている、云々。

 では、イヌとして選択された『対象』に上記の属性がそのままあてはまるかというと、かならずしもそうとは限らないような気がします。飼い主に従順でないイヌはいますし、猿と仲の良いイヌも存在します。年老いて『鼻が悪く』なったイヌや、歯の抜けたイヌはイヌではないのかという疑問も成り立ちません。

 上記の『属性』は『類型』でもあります。また、『イヌだから猿と仲よくできないだろう』『イヌだから鼻がよいだろう』という類の判断は『類型思考』ですね。類型に押し込めて判断するということは、多くの場合、的を射ることもあるかもしれません。しかし、その類型枠にあてはまらない人々は不当な評価と待遇を受けることになります。

 『類型』の利点は、判断を他に預ける、あるいはひとつのかたちに決定付けることによって思考を簡略化することにあります。それに対して、例外事項(あくまで判断する本人にとっての)の取り扱い、そして対象そのものに変化があった場合には可塑性がないのが『類型思考』の弱点でもあります。多くの場合『類型』とは容易に変わりえないもので、逆にそうでなければ『類型』はそれとして役にたたないのでしょう。一度生まれた偏見は容易なことでは消えることはなさそうです。
 そして、『偏見』は『差別』を産みます。

逆に、『××人の陰謀』という思考への距離がなぜ近くなるのかといえば、この考えかたならば『あまりものを考えずにすむ』ということなのでしょう。

 『~の陰謀』的なスローガンは、群集を扇動する意味で、説得力もありそうですから、積極的に利用しようということもあるのかもしれません。

 『忠臣蔵』に例を引きますと『浅野側は正義で、吉良側は悪である』という言説に近いでしょうか。もちろん事実はこのような単純なものではない、ということを誰もが知りながら、こう説明されるとわかりやすいのです。このひとつの事実に向けて、物事は帰納されていきます。これも『偏見』を産む原因のひとつであるような気がするのです。

 その意味では、安易に『××人の陰謀』という考えを持ち出すことも、前パラグラフで言及した『類型思考』と本質的には変わらないような気もします。

18日の日記で話題にしたフォードのステーションワゴンを買うことに決めました。
 その際に試乗をさせてもらったのですが、昔の車だけあって、トランスミッションの配列が珍妙だったり、方向 指示器を操作しようとしてワイパーを動かしてしまったり(操作系が逆なのです)と、おもしろい点がいろいろあって楽しめました。
 受け取りは来週の金曜日の予定です。詳細については、あらためて写真入りでレポートしようと思います。



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『空を飛ばないつもりじゃなかった』
1998年3月21日執筆

今日は終始風が強く、風向が一定しない一日でした。飛行機の訓練も、結局飛べずに終わりました。朝バス停まで歩いていく段階で半分あきらめてはいたのですが、やはり自然には勝てません。鳴かず、飛ばず。雲行きから見るに、明日は雨になるのでしょう。

luna さん日記関連の話題です。

 帰りがけに図書館でアーサー・ランサムの著作を検索してみたところ、昨日話題にした"COOTS IN THE NORTH"はありましたが、"We didn't Mean to go to Sea" は貸し出し中、他の著書についてはリストだけで『蔵書なし』というお寒い結果が出てしまいました。
 南島第一の都市たるクライストチャーチの図書館がなんたることであるか、と憤慨しましたが、ないものは仕方ありません。ならば本屋はどうかと聞いてみたところ、現物はそこにはなく、『取り寄せになってしまう』と言われたので、その場はあきらめて帰途につきました。明日は古本屋を探してみます。ランサマイトへの道は遠いようです。

 "COOTS IN THE NORTH"は未完・未訳の作品だったのですね。

一歩さん日記からの話題です。

 19日付けの拙文ですが、書き方が不明瞭であったことをお詫びします。
 イヌ、ネコとチンパンジーの比較については、物理的な排泄のコントロール能力を持つか持たないかの違いについて示したものでした。これは知能、文化とはまた違う質の問題です。

 営巣性の動物が自分のねぐらで排泄をしてしまっては、かなり具合の悪いことになります。先の例であげた『イヌ』や『ネコ』は、しっかりした排泄コントロール能力を持っています。かれらは、自分のねぐらで排泄するということは、原則としてありません。あるとするなら乳児のときか、病気のときか、相当の高齢になったときでしょう。寝ているときはもちろんのこと、起きているときもマーキング(この場合はにおいつけ行動)などのため、厳密に排泄をコントロールしています。

 これに対して、樹上性や水棲の生き物は、食事中でも、寝ているときでも、排泄はしたいときにしてかまいません。排泄物は『落ちていってしまう』『流れていってしまう』のどちらかなので、これらの動物はこのことを気にかける必要はありません。
 先の例にあげたチンパンジーには、もともと排泄コントロールの能力が欠落しているため、決まった場所で排泄するということがそもそも不可能なのです。これは知能とか文化のレベルではなく、体の構造が『排泄したいときに排泄する』ようにできてしまっているので、学習によってもどうしようもないことなのです。先に述べたことですが、『かれらと生活するのには紙おむつが必須』というのは、そういうことでもあります。

 ここでヒトはどうかということを考えると(乳幼児や高齢者を別にするなら)就寝中は排泄することがありませんし、もし排泄したくなった場合は自動的に目が覚めます。これは『睡眠』に対して『排泄』が割り込みをかけられるということで、よく考えると凄いことです。
 これは文化云々以前に、ヒトが営巣性の動物であったことを示しているような気がします。『訓練でなんとかなる』というのは、営巣性の動物であった証拠でもあると思うのです。

 『樹上性の動物には衛生観念がないのではないか』云々は、『樹上性の動物は、排泄物に不浄を感じる必要がない』というところから演繹したもので、実験結果にもとづくものではなく、あくまでもわたしの推測にすぎません。

 『自分の考え』と『確認されている事実』を区別せずに書いてしまうのはよくなかったですね。反省しています。



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『リトルトン港の一日』
1998年3月22日執筆

昨日の予想に反して、今日は穏やかな晴天でした。
 こんな素晴らしい日曜日に外に出かけずにどうする、というわけで久しぶりにイルカでも見にいこうかと思い、クライストチャーチの海の玄関、リトルトン港に行ってみることにしました。

 なぜイルカなのかというと、このあたりにはヘクターズ・ドルフィン(和名:セッパリイルカ:Hector's dolphin:Cephalorhynchus hectori)という固有種がいるのです。体長はヒト以下で、全てのクジラ・イルカ類のなかでもっとも小さい部類にはいります。このイルカはニュージーランド沿岸にのみ生息しているそうです。(かつてオーストラリアやマレーシアに記録がありましたが、これは同定の誤りだったことが判明しているそうです。)ヘクターズ・ドルフィンの背びれは独特のかたちをしています。後縁が丸くふくらんだ、第一次世界大戦の複葉戦闘機の垂直尾翼のような格好です。かれらは好奇心が強く、ジャンプをしたり船の波にのって見せたりする元気者でもあります。

 かれらには是非もう一度会ってみたい、ということでバスに乗っていってみたのはいいのですが、わたし以外に乗船したい人間がいなかったため、結局船がでませんでした。
 なぜだ。NZ以外であえるものじゃないのだぞ、観光客。

 しかしこのまま帰るというのも、バスでわざわざ出てきた甲斐がない気がするので、前から気になっていた蒸気船『リトルトン号』に乗ってみることにしました。動いているところは何度も見ているのですが、自分が乗るのは今回がはじめてです。
 この『リトルトン号』は100年前のタグボートを地元有志の手で復元したものだそうで、毎週日曜日に一回だけ湾内を運航します。土地のひとにはなじみのスポットのようで、週一回の運転時には、クライストチャーチから来る家族連れなどでいっぱいになります。今日はスクールバスで乗り付けた、地元の子供たちの団体と一緒でした。

 出港するときに、エンジンの音が蒸気機関車のドラフト音そっくりであることに気付き、うならせられました。蒸気船ですから当然といえば当然なのですが、『船』が蒸気機関車そっくりの音を出して航行するのはなかなか奇妙な雰囲気です。出港前に感心したのですが、ロープの巻き取りウインチまでも蒸気式で、回転するたびに細い蒸気の帯を吹いていました。こういうものが好きなひとには垂涎ものの船なのかも知れません。

 出港してからは、ひたすら双眼鏡で、海鳥を追っていました。優雅に滑空するカモメに交差して、ハトがせわしなくはばたいていくのが見えました。内海とはいえども、ここは海。海鳥と陸鳥の差はいかんともし難いようです。がんばれ、ハト。
 ウの仲間(Spotted Shag:Stictocarbo punctatus)が6~7羽、灯台の土台に翼を干していました。ウが翼を干すしぐさはどことなく微笑ましいものです。
 沖にでると、アジサシが魚をとっていました。このあたりで見かけるアジサシは、ホワイト・フロンテッド・ターン(White-fronted Tern:Sterna striata)、ブラック・フロンテッド・ターン(Black-fronted Tern:Sterna albostriata)のどちらかなのですが、逆光気味で、距離が離れていたため同定には確証が持てません。尾羽の形からすると前者だったような気がします。
 話を戻しますが、わたしは、アジサシの採餌ほど格好良いものはそうはない、と思っています。(カワセミもそうですね。)
 かれらが魚をとるときは、空中の一点に停止し、狙いをさだめて急角度で勢いよく飛び込みます。これだけでも十分派手だとというのに、海中に姿を消してから数瞬、水中から打ち出されるように飛び出したときには、すでに嘴に魚をくわえているあたりなど、こんなに格好よくて良いものかとさえ思ってしまいます。思わず『謎の円盤UFO』に登場するSKY-1の発進プロセスを想起してしまうのです。

ぴか さん日記からの話題です。
 『人権』についてですが、おっしゃるとおりだと思います。
 そのうえで、20日付けの日記で話題にした、『差別と偏見』について補足します。

『対象AにはXXという傾向がみられる』
『対象AはXXである』
 上記2つは似て非なるもののような気がします。

 「××人の陰謀」とか「みんな××人が悪いのだ」という論理は明快で、しかも説得力を感じさせられるという点で、危険なのだろうと思います。単純な論理は理解しやすいですし、論理構造的に美しいともいえますが、それがために本質をねじまげてしまう危うさがあります。
 単純化・抽象化のもつ魔力には、じゅうぶん注意をはらいたいものです。



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『寝過ごした。』
1998年3月23日執筆

昨夜8時頃から仮眠をとりました。くたびれたので1時間ほど眠ろうという趣旨だったのですが、目を覚ましたところ、時計はすでに午前5時をまわっており、腰をぬかしました。
 わたしの場合、この手の『仮眠』が成功に終わったことはほとんどないのです。
 なぜだろう。

現在午前6時をまわっています。日本時間の午前3時ですね。早起きの鳥たちが思い思いにさえずっているのが聞こえます。外を見ると、空がようやく白みかけているところです。ひところにくらべると、ほんとうに日が短くなりました。
 やせ細っていく『昼のとき』に物悲しさを覚えつつ、星を見るのには良い季節が到来したことも感じます。(※1)南十字星に往年の船乗り達の航跡を追体験するのも、宇宙に口をあけた虚無のような石炭袋にジョバンニやカムパネルラの軌跡をなぞるのも、ぼんやりと薄くけむる大マゼラン、小マゼランを見上げながら14万8千光年かなたのイスカンダルのスターシヤに思いを馳せることも、これからの季節は存分にできるのです。  また、日が短いということは、夜間飛行訓練に絶好の季節でもあります。

 そうです、夜間飛行です。
『――満天の星空に(以下略)みなさまの夜間飛行のおともをいたしますパイロットはわたくし始祖鳥――』(※2)

 わたしは現在のところ夜間飛行のレーティング(『限定』のこと)を持っていないので、こんな台詞は口にしたくてもできないのですが、がんばって夜間飛行ができるようになりたいと思っています。そのときは存分にこの台詞を口にする権限を利用してやるのだ。
しないかもしれないけど。
 ただ、わたしはトリ目気味なので、夜間飛行レーティング取得の可否はかなり怪しい、と自己分析しています。

 いかん、ロビエール支配人におこられてしまう。

【注釈】
※1 星を見るのには良い季節
 12月、1月の真夏は星を見るどころではありません。このあたりは午後10時近くまで明るいので、星を見ようとするなら12時以降になってしまうのです。

※2 ジェットストリーム
 この単語を聞いたとき、わたしは『偏西風』よりも『ジオン軍の三位一体攻撃』を連想してしまうことを告白いたします。どうでもいいことですが、『三位一体』と『六神合体』はそこはかとなく似ていますね。



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『今日は小休止』
1998年3月24日執筆

明日は学科試験が一教科入っています。
 バイクのない今、試験会場のカンタベリ・エアロ・クラブまでどうやって行こうか、思いあぐねています。今住んでいるところから空港までの15kmはバスがあるので問題ないのですが、件の試験会場は空港バス停のまったく反対、向こう側に位置しているので、少なくとも、歩いて1時間半はかかりそうです。ヒッチハイクか、タクシーしか交通手段がありません。往路だけタクシーを使い、復路は歩いて帰ってくるのが一番確実ですね。あるいは、往路も歩くことも考えています。

 明日の日記が途絶えたら、始祖鳥は試験疲れと歩き疲れと寄る年波の複合作用でバッタリいったのである、とご想像いただいてかまいません。
(明日の日記は意地でも端折れなくなってしまったぞ > 始祖鳥)



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『鳥の飛行の起源について』
1998年3月25日執筆

鳥の飛行の起源についてはさまざまな説がありますが、大きく分けるならば、
 『樹上から飛び降りた』 『地上を高速で走りながら舞い上がった』
という2通りの説に分類できます。

 前者の説ですが、鳥の祖先である始祖鳥(※1)の飛翔筋の発達が弱いことから、樹上から飛び降りたと考えるのが妥当ではないか、ということが根拠のひとつとして挙げられています。また、地上を高速で走って浮き上がったというのなら、地面から足が離れた場合、それ以上どうしようもない、ということもこの説の根拠です。

 対して後者の説は――わたしの支持する説でもあるのですが――以下のような説明がなされています。

 滑空から進化した飛行生物は、後肢も飛行のために作り替えてしまうことが多いのです。例をあげるならばコウモリやムササビがそうですね。飛行生物が『地上を歩ける脚』という重量物を維持しつづけているのは、一見不合理でもあります。
 しかし、この点に関していえば鳥はあてはまりません。あれだけ飛行に適応した生き物でありながら、走ることができる足をなぜかしっかり残しているのは奇妙です。ということは、鳥の祖先は地上から走って舞い上がったことを示唆しているのではないか――というのがこの説の論拠です。現に始祖鳥は、小型恐竜そっくりの強力な脚をそなえていたことを考えると、この説のほうが、しっくりうなずけるような気がします。

鳥は究極ともいえる飛行脊椎動物でありながら、かなり汎用性を残しているというところがあり、一般的な鳥は、地上を歩いて、もしくは跳ねて移動することができます。これは、地上を歩くことができないコウモリを考えると、驚異的なことでもあります。
 不器用に歩くペンギンにしても、同じように上陸する海中生活者のアザラシと比べた場合、地上での移動の自由度が桁違いです。海棲哺乳類でも、アシカはアザラシよりましですが、ペンギンの機動力(なにしろ立って歩ける)には及ぶべくもないないでしょう。わたしは数年前に、ハースト(南島西海岸の港町)の森のなかでフィヨルドランド・クレステッド・ペンギン(Fioldland Crested Penguin:Eudyptes pachyrhynchus)に出会い、仰天したことがあります。

 さらに、多くの水鳥は、空中、地上、水上(採餌時に水中)という具合に、複数の環境にまたがって暮らすことのできます。カワガラス(Cinclus pallasii)にいたっては空中、地上、水中と(水中は『泳ぐ』というよりは『岩につかまっている』のが大部分ではありますが)まるでゲッターロボのような活躍ぶりです。
 これをはっきり凌駕しているのは、昆虫のケラや、ゲンゴロウくらいのものでしょう。

 これだけ広い生息範囲を持っている鳥ですが、なぜか地上での主導権を哺乳類にとられてしまっています。
 ひょっとすると、鳥は器用貧乏なのでしょうか。

今日の試験会場へのアクセスですが、出発の直前に『貸し自転車を借りる』ことを思い付いたおかげで、結局タクシー利用もヒッチハイクもしませんでした。

 この国では例外的な地形なのですが、クライストチャーチ周辺はおおむね平坦で、坂道が少ないのです。市街地を散策するには、自転車は最適の道具です。
 ただ、いざ郊外に出た場合、最大の難物である『風』の洗礼が待っています。ニュージーランドは風をさえぎるものがほとんどないためか、その力は強大です。運悪く向かい風になった場合、ペダルをこぎつづけなければ下り坂でも自転車が止まってしまうほどです。

 当然ながら空港は郊外にありますし、そのまわりは一面の吹きっさらしなので、条件としては後者にあたります。空港のわきを走りながら吹き流しを見たところによると、どうやら風速は20ノットを超えていたようです。

 そんなわけで、試験会場のCACとの往復50kmを、行きは滑るようになめらかに、帰りはよたよたと帰ってきました。飛行機乗りたるもの、『風』を計算にいれていなかったのは不覚でしたが、ちゃんと往復できましたし、自転車で走ることそのものもなかなか楽しかったので、結果オーライであります。

 肝心の学科試験のほうはまずまず満足のいく結果でした。来週にまた別の教科の試験があるので、それの準備と勉強をしなければなりませんが、今日のところはお休みです。

【注釈】
※1 鳥の祖先である始祖鳥
 この見解は、事実上とどめをさされたようです。
 根拠としては、はるかに古い三畳紀の地層から『プロトアヴィス』が発見されたことが報告されていること、あるいはこの化石が『鳥』でなかったとしても、始祖鳥よりもはるかに完成度の高い鳥が、始祖鳥と同じ時代か、すぐあとの時代に出現していることなどがあげられます。
 また、始祖鳥の3本の指は親指、人差し指、中指が残ったもののようなのですが、現生の鳥の発生過程を調べると、残っているのは人差し指、中指、薬指の3本であることがわかりました。
 どうやら始祖鳥は現生の鳥の直接の祖先ではなさそうです。



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『切りが良い。』
1998年3月26日執筆

今日でこの日記も第四拾伍回を数えることとなりました。きりのいい数です。135や225、315というのもきりがよくて素敵です。

 切りが良い話ですが、25日の早朝(日本時間の未明)に、luna さん600番を目撃しました。
 いまさらになってしまいますが、17日早朝(日本時間の未明)に大内大さんさんの200人目にも遭遇しました。なんだか得をした気分です。

さっそく一歩さん21日の日記からの話題です。

『こんなこともあろうかと』ですが、あのくだりはどうやらわたし向けのものだったらしいことに今頃気付きました。反応が遅れてごめんなさい。

 ご教授いただいた『このへん』を拝見し、爆笑しました。(『このへん』については 一歩さん21日の日記からからリンクをたどってください。)

 『これは特撮だと思っていた』項目に抱腹絶倒しました。『恐竜探検隊ボーンフリー』は果たしてどう評価されるのか、気になるところです。

 そうそう、『カエル顔』にも悶絶しました。

これまた一歩さん26日の日記から、電波による発電についての話題です。

 沖縄にある米軍の電波施設の前で、60Wの電球の片側の極にアンテナ線をつなぎ、片側の極をアースすると、電球がこうこうと光るという話を以前に聞きました。
 衛星からのマイクロウェーブによる電力の移送は、地上への影響が怖いです。
 10W~100Wのアマチュア無線の電波でも結構な出力なのに、発電所の電力を考えた場合、なにが起きるか空恐ろしいものがありますね。

 無線といえば、わたしは『電話級』(今でいう4級)の従免をもつ『ペーパー』ハムなのであります。『太平洋ひとりぼっち』の堀江さんが、世界一周中の自分のヨットにアマチュア無線用の機材をつみこんでいた話に影響をうけ、中学生のときに取得したものなのです。しかし、ただ『とった』というだけで、局免の申請はおろか、恥ずかしいことにリグ(無線機)に触れることもなく今日にいたっています。

さらに一歩さん26日の日記からの話題です。

 『創作=自己愛』説はまさしく正論であろうと思います。
 しかし、議論は(相手を含む)聞き手の興味を引く必要があるという点で、エンターテインメント足るべきだとわたしは思っているのですが、この意味で、『正論』を言い切るということは、プレゼンテーションの方法として興味深さに欠けるものでもあるような気がします。これは、その時点で議論をとめてしまうことと同義のように感じるのです。
 事実、あれだけ盛況していた会議室/話題が、『創作=自己愛』論以降、発言がとだえてしまっています。わたしはもっとほかの作家さんの意見も聞いてみたかったので、すこし残念です。

一歩さん26日の日記からの話題、『鳥は器用貧乏』については明日の日記に順延させてください。



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『自己愛とコミュニケーション』
1998年3月27日執筆

先日話題にした車が手元に来ました。

 先日18日の日記で、FORD CORTINA と書いてしまいましたが、車両登録を見たところ、正しくはFORD ESTATE45でした。
 受け取ってから、車体に慣熟する意味で各機能をひととおり試そうというわけで、ボンネットを開けたり後部ハッチを開閉しているうちに、観音開きの後部ハッチの鍵がかからなくなってしまいました。ただでさえ盗まれやすいフォードの旧型車だというのに鍵がかからないのでは、これはもはや『盗んでください』と言っているのと同義です。とりあえず錠の部分を分解掃除することでことなきを得ましたが、これには肝を冷やしました。

 さて、郵便局が閉まってしまう前に、急いで名義変更(※1)を届け出なければなりません。今日は金曜日、今日間に合わなければ月曜日になってしまいます。もよりの郵便局に走り、名義変更の手続きをおこない、一時的な登録証明を受け取りました。正式な登録証明は10日以内に郵送して貰えるとのことです。

 残念ながら、今日は保険屋さんの営業時間には間にあわず、これは月曜日の宿題となってしまいました。

 次に、郊外の車用品店まで、盗難防止用のステアリングロックを買いに行くことにしました。車両を受け取ってから初めてのエンジン始動です。
 アクセルをこころもち踏み込み、チョークを引き、イグニッションをひねると、せき込むような音を立ててエンジンがかかります。わたしの知っているクルマよりは、どちらかというと旧式の単車のそれに近い始動感覚です。このクルマは製造されてから20年、あるいはそれ以上を経ています。下手をするとわたしと同い年かもしれません。

 独特の操作(※2)にとまどいながらも、目的地にたどりつき、ステアリングロック(※3)を買って帰ってきました。
 これで一安心、今日のノルマは完了です。あとは訓練の準備と、この日記を書くだけです。

『創作=自己愛』説に関して、あとになって思い出したことがあるので補足します。
 創作物を発表するということは、『情報を発信する』という行為にほかなりません。『発信する』ということは『受信する』存在があるわけで、これはコミュニケーションといえます。

 さて、動物のコミュニケーションについてのお話ですが、得をするのは情報の送り手か受け手かという問題を考えると、結論から言えば、一般的に言って得をするのは送り手なのです。  たとえばアンコウですが、かれらは頭から生えた『釣り竿』をくねらせ、それにおびき寄せられた餌を捕食する習性を持っています。これを別の視点から見るなら、アンコウ側が『餌がある』と言う情報を発信し、小魚がそれを『受信』したという意味で、コミュニケーションといえます。しかし、この場合、一方的に得をするのはアンコウです。

 情報を発信することは、それなりの手間とコスト、あるいはエネルギーを必要とします。これをあえておこなうというのは『広義にみて自らの利益になるから』ということに他なりません。言い換えればコミュニケーションとは、必要とあれば受け手を犠牲にしても、送り手の遺伝子保存を有利にするための手段でもあると言えます。また、その意味で『創作=自己愛』説は、説得力をもっています。

 しかし、利益が均等でないとしても、双方ともに得をすることで、コミュニケーション手段が進化してきたこともまちがいありません。
 ガンやカモはワシを発見すると、警戒音を発します。これは他の鳥のことを考えているというよりは、一羽で逃げていたずらに目立つよりも、群れ全体で逃げた方が捕食されるリスクが減る――つまり、自身の安全のためであると考えた方が合理的です。もちろん、発信者だけではなく、これによって他の鳥(受信者)も利益を受けているわけですから、これはアンコウの例とは違うところですね。

 わたしは『創作活動』は後者に近いものであるような気がするのです。

26日の日記からの話題、『鳥は器用貧乏』についてです。

--> 【注釈】
※1 車両の名義変更
 ニュージーランドでは車両の名義変更は郵便局でおこなうのです。

※2 独特の操作系
 エステートのトランスミッションの配列は以下のようなものであるため、駐車場からバックするときに一瞬とまどいを覚えます。

R13
└┼┤
 24
 さらに交差点を曲がろうとして、ワイパーを動かしてしまうこと数度。この車は、ディレクションインディケーター(和製英語でいうところのウインカー)の操作棒が左についているのです。

※3 ステアリングロック
 先日の日記で『フォードの旧型車にはステアリングロックを取り付けられない』 と書きましたが、正確に書くのならこれは誤りで、『ステアリングロックは取り付けられるが、ハンドルがある程度自由にまわってしまう』というのが正しいそうです。現在ではステアリングロックのほうも改良されていて、フォードの旧型車にも有効なものが販売されてます。



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『ドライブ、する?』
1998年3月27日執筆

今日は、雨。
 飛行訓練は残念ながら中止、というわけで、まる一日クルマをあれこれしていました。
 あれこれしている過程で何個所か発見したなめたネジを、手持ちのものに交換しようとしたところ、フィットしないことに気付きました。どうやらネジのピッチや内径の規格がが違っているようです。アメ車は(英国車もそうです)メートル・システムが当たり前ではないことをすっかり失念していました。あとでネジを買ってこなければなりません。

 また、スピードメーターが220km/hまで切られていることに、遅ればせながら気が付きました。どう考えても毎時160km程度しか出そうにないので、ちょっぴり哀愁が漂っています。

 独特の操作系統にはだいぶ慣熟しました。
 唯一ホーンの鳴らしかたが謎だったのですが、左側についている方向指示器のレバーを内側に押し込むことで鳴らすことができることを発見しました。
 普通、こんな操作法法は誰も思い付かないぞ。>FORD

さて、荷物室を居住区に改装してしまう計画を思いつきました。  この車は後部座席を完全に撤去しているので、シュラフを入れれば荷物室で横になって寝ることができます。泊り込みの野鳥の観察など、フィールドワークにはもってこいの機材です。
 荷物室にカーテンをめぐらし、蛍光燈ランタンなどを持ち込めば、夜間の釣りにも使えそうです。これを応用すると天体観測にも転用できそうですが、双眼鏡しか持っていないのと、なによりわたし自身に天体に関する知識がないのが問題です。

明日は走行試験、燃費試験を兼ねてカイコウラに出かけてくる予定です。雨が上がることを切実に願っています。



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『カイコウラに行ってきました』
1998年3月29日執筆

昨日、FTPサーバにトラブルがあったようで、日記をアップロードできませんでした。(Webのブラウズはできたので、FTPの問題だったようです。)
 昨日、当地を訪れていただいたみなさん、もうしわけありません。

昨日の日記で予告したとおり、今日はカイコウラまで日帰りで行ってきました。
 明け方に嵐のごとき雨音がしていたため、今日の出発を危ぶんでいたのですが、朝起きてみると強風ではありましたが空は快晴、頭上に虹がかかっています。
 わたしはよろこび勇んで出発しました。行程180km、途中でドイツ人のヒッチハイカーを乗せ、強風にあおられつつカイコウラに着いたときはちょうど引き潮の時間帯で、アシカのコロニーのすぐそばまで歩いていくことができました。  オイスターキャッチャー(シギ、チドリの仲間)も見かけました。すぐにどこかに行ってしまったので一瞬しか見えませんでしたが、確かにいるということがわかったので、これは次回の課題です。

 今日の行程については、『始祖鳥写真館』に掲載しました。

いつもあとになって後悔するのですが、わたしがメディアをいくつも持ち歩くと、使うのはきまってひとつのメディアに偏ってしまいます。
 デジタルカメラを使うときには普通の写真をとらず、普通の写真を撮るときには8mmビデオをまわさず、8mmビデオを使うときは両方のカメラを使わない、という具合で、結局一番初めに手に取ったものを最後まで使ってしまうことが多いのです。
 この3台の機能を一体化し、それでいて小型軽量の記録機材があったら便利だろうなあと、ときどき思います。

本日の燃費はリッター10kmを少し下回る程度で、前に乗っていたNS400Rと大差ありませんでした。NS400Rはかなり大食らいの単車ではありますが、なんだか不思議な気がします。
 走行性能ではくらぶべくもありませんが、荷物の輸送力が圧倒的に優れているので、これはこれで割り切って使うつもりです。

本日付けで、新コーナー 『始祖鳥写真館』を開設しました。文章を書くのが追いつかず、ハードディスクの肥やしになっている写真が山ほどありますので、これを機会に徐々にコンテンツとして提示していこうと思っています。

一歩さんへ私信です。 もちろんですとも、 一歩さんの日記は毎日楽しみにしてます。いつもネタを振ってくれてありがとうございます。これからもよろしくおねがいします。



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『光の知覚』
1998年3月30日執筆

luna さん日記を読んで驚きました。

 小学生のころからすごい読書量ですね。
 わたしの場合、小学生のころは図鑑ばかりを読みあさっていたので、児童文学の洗礼をほとんど受けませんでした。  かろうじてついていけるのが、『冒険者たち』(アニメ版は『ガンバの冒険』)です。大好きでした。いまの視点で読んでも再読に耐えるのは凄いです。
 『こねずみラルフの冒険』『こねずみラルフ第二の冒険』も好きでした。わたしの単車好きはこの話に端を発しているかもしれません。(どちらかというと『仮面ライダー』という説もあります。)
 『ながいながいペンギンのはなし』も好きでした。読書感想文を書いた記憶があります。
 今読み直すとまた違った感想を持ちますが、ロンドン(だったかな)の『白い牙』に感銘をうけたのも、シートンの著作を読みふけったことも記憶しています。『銀の星』は良かったです。
 そうそう、ずっとあとになって『戦闘妖精・雪風』を読んだとき、ふと『伝書鳩アルノー』を想起してしまい、われながら面食らいました。どこが似ているのだ、といわれると返答に詰まるのですが……。

 『海底2万マイル』はあとで正訳版を読み返してあまりのマニアックさにのけぞりました。ジュブナイル版はあのマニアックな雰囲気が減殺されてしまっていますね。
 ジュール・ベルヌのジュブナイル版で好きだったのは、『征服者ロビュール』を自動向けに書き直した『そらとぶ戦闘艦』(※ゆうれい船ではない)というタイトルのものでした。巨大ヘリコプター(といっていいのだろうか)『あほうどり号』の考証には非常に感動した記憶があります。『80日間世界一周』も好きでした。物語中にちりばめられた蘊蓄もさることながら、結末が見事なサプライズエンディングになっているのもすばらしいです。ヴェルヌはまぎれもないハードSF作家ですよね。
 フランスは嫌いですが、ヴェルヌとサン・テグジュペリは大好きです。

 『宝島』は出崎監督のアニメーション版がすばらしいです。

今回の話題は目の構造についてです。
 目という感覚器官を定義するのなら、『特定範囲の電磁波の知覚器官』ということになります。この『特定の』というところが引っかかります。
 電磁波は『光』だけではないのに、なぜ電波やX線をみることができないか、という問題について考えてみます。

 まずは、エネルギーについての観点から考えてみましょう。光の持つエネルギーはその波長に反比例します。つまり、電波において光子一個あたりの持つエネルギーは小さく、X線においては大きいということでもあります。
 つまり、電波では感光色素を異性体化するまでのエネルギーがない、というのが私たちが電波を知覚できない理由のような気がします。
 ならばX線やガンマ線はどうかというと、これらが大気によってさえぎられているせいもありますが、あまりにもエネルギーが大きすぎて生物組織そのものに悪影響を与えてしまいます。
 よって、可視光帯域付近(赤外線、紫外線を含む)の光のエネルギーが多くの生物にとって適切である、というのが、わたしたちが『光』を知覚できる理由なのかもしれません。

 第2に、電磁波も波である以上、波長によって屈折率が変わってくることも問題のひとつです。波長が短い波は屈折率が大きい、という現象があります。
 たとえばヒトの角膜に使われている物質ならば、それがあらゆる電磁波をさえぎらないと仮定した場合(実際にはそんなことはありません)、波長の長い電波を使って網膜に像を結ぶには、レンズと網膜との距離を十分に取る必要があります。それこそ電波望遠鏡のごとき巨大な目が必要になってしまうでしょう。また、波長が長いと『像が粗く』なり、物体の輪郭を捉えられなくなるということもありますから、この点も問題のような気がします。(パラボラアンテナは一種のレンズですが、その目的は像を結ぶことではなく単純に電波を集めることにあるので、小型化することが可能です。)
 対して波長の短いX線はどうかというと、これは電波とは逆の意味で像を結ぶことができません。X線はエネルギーが強いため、多くの物質を透過してしまいますし、透過しなかったとしても、屈折率が大きすぎて目の中で焦点を結ばないでしょう。
 あらゆる波長に対応した『レンズ』を用意することは事実上不可能なのです。
 X線眼をもつスーパ-マンはそのままでは可視光線を見られないということになりますね。

さて、波長による屈折率についての問題ですが、可視光帯域でさえもこれは無視できない影響があります。
 光は、前述したとおり、波長が短ければ短いほど高い屈折率をもっています。これは言い換えれば、青い光は赤い光よりも手前に像を結んでしまうということでもあります。この結果どうなるかというと、輪郭に虹を引いてしまうのです。口径の小さい安い屈折式天体望遠鏡などでよくあることですが、これを『色収差』と呼んでいます。
 カメラなどのレンズの場合は何枚かの異なった屈折率を持つレンズを貼り合わせることでこれに対処しています。いかにして明るさをおとさずに色収差の処理をおこなうか、というあたりがレンズメーカーのノウハウでもあるのですが、ヒトの目の場合、方法がまた違っています。色を感じる感光色素、つまり網膜の処理で補正を行なっているのです。逆に魚やクモの仲間には色収差をうまく利用しているものも存在します。感光色素をレンズに近い側から青、緑、赤と3層に配置し、焦点をうまく結ぶように工夫する仕組みです。ただ、これは眼そのものが十分に小さいか、屈折率が大きい環境でしか役に立ちそうにないので、地上性の大型動物には不向きなやりかたでもあります。

ヒトの眼には、鼻側の約12°~19°付近にかけて、盲点が存在します。
 わたしたちは視線を無意識にずらすことでこれを意識せずにいますが、盲点は視神経の通り道にあたり、この部分には視細胞がありません。これは脊椎動物の特徴でもあり、タコやイカの眼は視神経がそのまま裏側に抜けるために盲点が存在しないのです。
 脊椎動物の場合、なぜ視神経が前面をとおっているのか(盲点が存在するのか)、わたしにはよくわかりません。

さて、昼間の視覚のうちでもっとも重要なのが『黄点』です。
 視細胞は、明るいところでの視覚を受け持つ錐状体、暗いところでの視覚を受け持つ桿状体に分類されますが、このうち錐状体が集中している部分を『黄点』と呼んでいます。ヒトの眼ではこの領域は一個所、中心から0.5°をカバーしており、錐状体のほとんどがこの領域のなかに集中して存在しています。黄点のない動物、例えばネコやネズミの視力ははるかに落ち、 ヒトの解像度は30秒ですが、これがネコになると4分(ヒトの8分の1)、ネズミに至ってはほぼ1°(ヒトの120分の1)の視力しかありません。

 これに対して、鳥類の場合は黄点が2箇所あります。前方を見るものと側面に気を配るものとの2箇所をもっていることあたりなど、さすがは視覚に特化している生物です。
 余談になりますが、立体視用の黄点と側面視用の黄点を比較した場合、後者のほうがよく見えるようです。鳥の場合は、横を向いて片眼で見るほうがものを鮮明に見ることができるようですね。



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『盲点チェッカーです』
1998年3月31日執筆

昨日の話題に関連して、盲点チェッカーを作ってみました。

あそびかた
1.まず左目を閉じます。
2.右目で左側の十字を注視します。
3.そのまま眼と画面との距離を変えていくと、ちょうど右側の黒い点が消える距離があります。
その角度に対応するのが網膜上の『盲点』です。

 一番上のものは640*480ドット向け、二段目は800*600ドット向けで、眼と画面の距離がおよそ30cmになったときに黒い点が消失するように調整しています。ちなみに一番下はリブレット用です。

 えーと、もしどうしても点が消えない場合は、わたし当てに苦情のメールをくださるか、日記で文句を言ってください。きっとその場合はわたしの計算ミスか、さもなければ、あなたは脊椎動物ではないか、そのどちらかでしょう。

明日の午後に航空医学の試験があるのですが、その勉強中に思いついたネタでした。実をいうと、昨日の視覚ネタも同じところから思いついたものです。よし、試験勉強に復帰するぞ。


最新の日記

過去の日記(タイトル一覧)

始祖鳥生息地へ