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【始祖鳥発見の経緯】2007年11月14日更新
- ・ロンドン標本
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ロンドン標本を語るには、まず、これが産出する2年前の1859年にダーウィンによる「種の起源」が出版されていたことに触れる必要があります。この本で語られている進化論は「種は変わり得る」ことを示すものであり、当時のキリスト教の信念である神による創造と種の不変性を揺るがすものでした。
進化論に反対する立場の人々は、爬虫類と鳥にはどんな中間的形態も存在しないことを、進化論の矛盾点としてしばしば引用しました。これについてはダーウィン自身が「過渡的な形態」が見つからないのは「化石記録が不完全なため」であると著書内で1章を割いて説明していましたが、中間種が出ていないという状態では、反対論者を説得することは難しいものでした。
そんな中、産出したのがこのロンドン標本でした。この標本が爬虫類と鳥類の特徴を誰の目にも明らかな形であわせ持っていることは、進化論の趨勢に非常に大きな影響を与えました。
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1861年、ヘルマン・フォン・マイヤー(Hermann von Meyer)は、後にロンドン標本と呼ばれる最初の骨格標本(正確には最初に始祖鳥と認識された骨格標本)の記載論文を発表しました。
この化石の持ち主、カール・ヘーベルライン(Carl Haberlein)は始祖鳥が産出する地元の医師で、採石夫たちからしばしば治療費の代わりに化石標本を受け入れていました。このコレクションの中の一つが始祖鳥でした。
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ミュンヘン大学の動物学の教授であったアンドレアス・ワグナー(J.Andreas Wagner)は、進化論に反対の立場を唱える人でした。ワグナーは先行して存在していたフォン・マイヤーによる学名(Archaeopteryx)を無視し、想像上の生物グリフォンとトカゲを組み合わせた名前である、グリフォサウルス(Griphosaurus)の名を与えました。大人気ない行動ですが、それほどまでにワグナーは始祖鳥は鳥と認めたくなかったのでしょう。
ワグナーらの反対も影響してか、ドイツはこの化石を積極的に獲得しようとはせず、結局この化石は大英博物館に売却されました。これがロンドン標本として知られている標本です。
ヘーベルライン・コレクションは23個の爬虫類、294個の魚類、1190個の無脊椎動物の標本、145個の植物化石を含む1703標本に及びました。参考までに、大英博物館はの全ての収集物に対して700ポンドを1862年と1863年に分割払いで支払っています。(始祖鳥自体は450ポンド)。
この標本の購入を強く支持した大英博物館の地質学の責任者はロバート・G.ウォーターハウス(Robert G. Waterhouse)でした。しかし、彼の専門は昆虫学であったため、標本の研究は大英博物館に所属する解剖学者、および古生物学者であるリチャード・オーウェン(Richard Owen)に託されることになりました。一流の解剖学者であったオーウェンによる1863年に発表された研究は非常に素晴らしいものでしたが、フォン・マイヤーの学名(Archaeopteryx lithographica)とは別の学名(Archaeopteryx macrura: macuraは長い脚の意味)を与えることを主張したことを別にしても、ただ一つだけ、当時の水準で考えても明確に「見落とし」といえる点がありました。
ロンドン標本は頭蓋骨の顎の部分が丸く欠落していますが、始祖鳥には羽毛から構成される鳥類的な翼が存在することから、それに見合う歯のないくちばしがあったと推論した点です。
オーウェンの論文の後に、ロンドン標本上に始祖鳥のものと思われる上顎の断片と4つの歯が残っていることをジョン・エヴァンス卿(Sir John Evans)が示唆しています。オーウェンはこの「歯」を(意図的に?)別の動物のものと解釈していたのです。
また、ダーウィンの支持者であったトマス・ハックスリーは、1863年のオーウェンの発表後、ロンドン標本の徹底的な研究を開始し、1868年暮れに論文「始祖鳥における注目すべき点について(Remarks upon Archaeopteryx lithographica.)」を発表しました。この中で、ハックスリーはエヴァンス卿の指摘については直接触れていませんが、始祖鳥が歯を持っていた可能性に付いて触れています。
この問題はベルリン標本が産出する1877年にハックスリーが正しかったという形で決着がつくことになります。
さらにハックスリーは、同年(1868年)暮れに論文「鳥類と恐竜型爬虫類の中間種に最も近い動物について(On the Animals Which Are Most Nearly Intermediate between Birds and Reptiles)」を発表、1870年に「恐竜型爬虫類と鳥類の類縁関係に関するさらなる証拠(Further Evidence of the Affinity between the Dinosaurian Reptiles and Birds)」を発表します。
これらは恐竜を鳥の起源と考えた最初の論文です。ハックスリーはメガロサウルス(Megalosaurus)が他の爬虫類よりも、むしろダチョウのような走鳥類に類似していることを解剖学的特徴の列挙により説明しました。
- ・ベルリン標本
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1877年にSolnhofenで発掘されたこのベルリン標本は、現在知られるあらゆる化石のなかで最も美しいものの一つです。
第一発見者の石切場の監督はわずか140マルクでそれを売却、それはエルンスト・ヘーベルライン――ロンドン標本の売り手であるカール・ヘーベルライン医師の息子――が所有するものとなりました。それはロンドン標本よりもさらに保存状態の良い完璧な標本で、各博物館から引く手あまたでした。
ロンドン標本の時の反省を踏まえ、ドイツは威信をかけてこれを獲得しました。標本はドイツ産業界の立役者ヴェルナー・フォン・ジーメンス(Werner von Siemens)――電気機関車の発明者――によって購入され、Dameによるベルリン標本記載論文で提案された種名 A.siemensiiはこれに由来します。そして最終的にプロシア文化省が20,000マルクで買い取りました。この標本は「ベルリン標本」と呼ばれ、現在もフンボルト博物館に所蔵されています。
- ・テイラー標本
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テイラー博物館は1784年に開館したオランダで最も古い公共の博物館です。博物館自体が貴重な歴史的建造物で「博物館の博物館」の異名を持っています。館内の照明はガス燈とキャンドルのみで、これらは危険だという理由から1970年の時点ですでに使用できませんでした。かといってテイラー博物館は歴史的建造物のため配電工事もできず、来館者に懐中電灯を配ったりもしていたのですが、結局最もシンプルで有効な解決策を取りました。日が落ちた後は閉館にしたのです。
1970年8月、当時翼竜を研究していたオストロムは、この博物館に収蔵されているプテロダクティルス(Pterodactylus crassipes)の標本を借りるためにテイラー博物館を訪れていました。1855年に産出したこの腕だけの標本は、1857年、Hermann von Meyer(始祖鳥の命名者)によって翼竜として同定されていたものでした。
彼を迎えたC. O. van Regteren Altena館長(当時)は、オストロムに標本を預け、数分間席を外しました。
しかし、オストロムは飛行の進化について興味を持っており、その関係で翼竜を研究していましたから、化石を見るなりこの標本が解剖学的に翼竜のものではありえないことに気付きました。
それではこの化石はいったい何なのか。
答えは明らかでした。窓から差し込んだ斜めの日射光が、羽毛をくっきり浮き上がらせていたからです。
普通の博物館のような蛍光灯の眩しく均等な光では、羽毛の印象は目に見えなかったでしょう。しかし、テイラー博物館には人工的な照明がなかったことが逆に幸いしたのです。オストロムの目の前にあるのは、まぎれもなく始祖鳥の第4標本、そしてそれとは知られずに産出していた一番古い標本でした。
無限に感じられた数分間の後、Altena館長が戻ってきたとき、オストロム教授は――発見の成果を奪われる可能性も、化石を貸してもらえなくなる可能性もあったにもかかわらず――この化石は始祖鳥の標本であるということを正直に話しました。
数分間の沈黙の後、Altena館長は化石を持って姿を消しました。やはり貸してもらえないのか―― しかしオストロムの予想に反し、Altena館長は、頑丈な靴箱を抱えて戻ってきました。のちに後にテイラー標本と呼ばれることになる始祖鳥第4標本を収めた靴箱です。
それをオストロムに手渡しながら、Altena館長はこう語ったとオストロムは述懐しています。
「オストロム教授、あなたはテイラー博物館を有名にしてくれました」
始祖鳥生息地へ
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